雑草駄文


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 【No 1210】 [2006年12月14日(木)]

皆さんは乗っているバスが
道を間違えた事がありますかー!?



私はあります!( ̄▽ ̄)/ ←悟りを開いた顔



そんなこんなの卯月さんです・・・安静に暮らしたい・・・。
今回の日記はかなりフェチ度の高いもので、興味のない人には全く意味のない
ものとなっていますので、褌がお嫌いな方は回れ右して下さい。
また、萌えー!というよりも少し真面目なお話に近いです。














さて、最近出た本(?)でBL日本史というのがありますね。
日本の歴史をBLで読むという面白い本なのですが、ここに書いてあったひとつの
記述に卯月さんってば心を掠め取られたわけですよ。



キャッツカードもなしに・・・!(※別にうまくない)



いやね、だってね、歴史、そしてホモとくれば卯月さんじゃないですか。
うきうきしながら本を買ったわけですよ。そしたら別に目新しい事は載ってないし、
どう見てもこじつけっぽい記述はあるし、それはそれでBLっぽければOK!的な
ところもあるのでいいんですが、書いている人が男の人なのかどうにも文章が
読みにくかったんですよ。こう、真面目っていうか、お堅いっていうか。
ここが萌えるの!ってポイントなんざありゃしない。がっくりしつつもそれなら
歴史書としての資料的価値はあるのかって思ったら、それもない。行間も広いし、
書いてあることもそれほど深く掘り下げたものではないし、どちらかというと
文庫によくありそうな出来栄えなんですよねぇ・・・。ほんとがっかりだよ!(C:やっくん)

しかしながらBL歴史に浅い方には入門書としてうってつけかと。思いまして。
頑張って読んでみました。すると天草四郎の記述が載っているではありませんか。
以下、うろ覚え抜粋。

「天草四郎はもともと小姓か、あるいは小草履取りであったといわれている。
小草履取りは、美少年の接待係のことだ。普通の草履取りとは違い、
美しく着飾って主人の傍にお仕えする。性愛の対象でもあっただろう」









・・・・・・・・・えっ!?Σ(●□●;)








おおおおお、オドロキですよーーー!?(挙動不審)
天草四郎が小姓、あるいは小草履取りであったと言われてたなんて初めて聞きました。
まぁ私なんかは知らないことが多々ありますから、純粋に驚きましたよ。
うんうん、いい知識を入れさせてもらった・・・って、待て!

天草四郎といえばキリシタンたちを率いて一揆を起こした
「島原の乱」で有名な17歳(現在の年齢では16歳)の少年ですよ。




キリシタンですよ。









キリシタンといえば
ホモなんざご法度ですよ!?
















小姓で、性愛の対象として仕えてた
なんてありえるの!!!!!????


















と、いうわけで。
卯月さんのなんかの魂に火がつきました。

ここで天草四郎という人物を検証してみましょう。
彼はキリシタン大名である小西行長の遺臣であった浪人、益田甚兵衛好次の子供として
どこかで生まれます(※いや、諸説あって定まってないのよ、出身地が)。
(蛇足ですが長崎生まれというのが一番有力です。当時、生まれた土地で行うというさらし首が、
篭城した城のほかに長崎の港で行われたためです。お父さんも長崎で浪人時代を過ごしていた過去があります)

身長は155センチ程度。幼時より目から鼻に抜ける利発さの上に、眉目秀麗、一見
少女と見紛うばかりの容姿で、年と共に紅顔花の如き美少年と賞される才知溢れる少年です。

家族共に敬虔なクリスチャンで一説によると四郎は赤毛で異人とのハーフだったのでは
ないかと言われてもいます。そんな彼は天草でキリシタンの聖絵を配るなどして布教に努めます。
しかしその絵を貰った農民が家族ともども殺されたり、百姓の臨月の妊婦が水牢で出産、
子供ごとその場で獄死したことから乱が勃発します。(年貢を納めないと水牢に入れられた)
既に神童として名声高かった四郎は農民、そして浪人たちを率いて発起しました。
しかし農民たち3万7千に対して、幕府は正規軍を12万も率いて全滅に至らしめたのです。

・・・っていうのは、もちろん歴史の勉強として学校で習ったもんですね。
では四郎はいつ小姓として働いたのか、検証してみましょう。
卯月さん、調べました。それはもう、頑張って。
するってーと、確かに小姓として働いている記述が残っていました。

九歳になった四郎は加藤清正の家来で、須佐半之丞(※須左美権之允)と
いう人の小姓を勤めます。そして十二歳になって加藤家が没落するまで仕えました。







なぁんだ、四郎ってば小姓してたじゃん





































というのはまだ早い(真顔)。













九歳から三年間。
実はこの期間というのは四郎のお母さんの証言によると如来寺に勉強に行っていたんですね。
十二歳で長崎に行くというのはどの歴史書でも共通事項なので、そこは間違いない。

じゃあ一体、九歳からの三年間、四郎は一体何をしていたんじゃっちゅー疑問が生まれます。

私はそこを紐解くための鍵は「加藤清正」の家来に小姓仕えした、という記述に
あるのではないかと考えました。加藤清正って人はね、ものすごい仏教徒だったんですよ。
キリシタン大名だった小西行長が亡くなった後、一度は天草の城主となった加藤清正でしたが、
キリシタンが嫌いなせいでわざわざ豊後鶴崎と領地を取りかえっこしているんです。
しかも幕府公認。それだけキリシタンが嫌いな人間の家臣が、いくら自分の小姓といえども
敬虔なクリスチャンを傍に置くでしょうか?しかも接待役?おいおい、まかり間違って
クリスチャンなことが接待した他大名に知れたら主ですらもキリシタンの疑いを
かけられかねませんよ。そんな状況下で四郎という人間を小姓にしたがるだろうか?
(さらに言うと加藤清正は四郎が生まれる10年も前に死んでいて、同じくらいの年に
天草の小西行長が持っていた城も取り壊しになっている。だが加藤家自体は息子が継いでいて、
ちょうど四郎が12歳の頃に取り潰しになっているので年数的には合わなくもない。
もひとつ余談で加藤清正は小西行長とは朝鮮出兵のときに先鋒をめぐって争うなど
犬猿の仲だったので、家来といえども小西の部下の子供を面倒見るのは嫌だったのでは?)


ってことは、やっぱり九歳で難しい経典を読み解いたという賢い我が子を勉強させに
如来寺に出したっていうほうがいくらか信憑性があるのではないでしょうか。
(ちなみに加藤清正といえば尾張名古屋城の建築にも縁有る人物。名古屋城に行く方はぜひ)

だいたい家族共にクリスチャンである彼が閨まで奉仕するとしたら確実に地獄行きだから。




・・・とはいっても、実は四郎は十二歳まで仏教徒として仏教を習い、
その後十四歳でキリスト教を習ってキリシタンになった、という説もあるんですよね。

うおおおおおお、わからん。
余計にわからなくなってきた。

もしも十二歳まで仏教徒として仏教を習っていたとしたら、小姓をしていても
なんら可笑しくない状態だったと思われます。その後キリシタンとなって自分の
所業(まぁ、男とセックスしたってことにしておきましょうか)を罪滅ぼすために
布教活動に精を出した・・・というのも一考の価値がありますよね。

うーん、うーん。どうなんだろう。
天草四郎は小姓として伽をしたか、否か。
それが問題なんだよ!ずっと私の頭を悩ましているんだよ!



時代的にはアリなんだよ!



でも、キリシタン的にはナシなんだよ!



うーおーうー・・・(頭抱)。
ちなみに筆者はこの戦いを「日本の伝統的ホモ(幕府)VS東アジアのホモ(一揆)」と
説いていますが、どちらかといえば「ホモ集団(幕府)VSアンチホモ集団(キリシタン)」と
いう図式のほうが合っているのではないかと思うのですが・・・。

いやね、時の将軍が三代家光ということが鎮圧に数万の軍隊を出した理由の
ひとつというのにはものすごい納得しましたよ。私もそう思います。
でもホモ大好き家光ちゃんが、アンチホモ集団のキリシタンたちを認めちゃえば
今現在受け継がれている衆道という行為自体が攻め立てられることに他なりません。
そうすると家光ちゃんの趣味が禁止されてしまうので、そういう行為はダメだと説く
キリシタンたちを弾圧したのではないかと。これが卯月的BL歴史論。


さて、そんなわけでいまだ私の中で決着がついていません。
BL日本史としては美少年が小姓をしていて、浪人たちのアイドルだったっていうほうが
萌えでいいんだけどさー。私もその設定大好きなんだけどさー。
(※卯月さんはけっこう天草四郎もののBL漫画とか持ってますよ)

まぁ、ちょっとまだまだ悩みます。うにゅ。


長いわりには実のナイ会話

 【No 1212】 [2006年12月18日(月)]

少々お疲れ気味ですが攻略本も買ったことだし転生学園頑張っちゃうぞな卯月さんです。
セボーン ザボーン トレビア〜ン (※疲れています)
今回のテーマはコレ!
「天草四郎について本気出して考えてみた セカンドステージ」


前回の日記を見た桂さんから以下のタレコミ?がありましたよー!

天草四郎は実は豊臣の遺児だった説がある。
真田幸村が秀頼(四郎の父?)の手を引いて逃げたという歌が残っている。


・・・うーん、なかなかロマン溢れる逸話ですなぁ。
これはテレビでも取り上げられた説なので知っている人も多いのでは?
私も知ってはいますが、まぁ、なんというか・・・眉唾ものというか?
義経がチンギス・ハーンになったという説くらい怪しいかと思っています。

いや!
ロマンなんだよ!?美青年を連れて必死に逃避行する真田幸村とかね!?
BL的日本史ではアリなんだよ!ぜんぜんアリなんだよ!!むしろ推奨だよ!!
だけどなぁ・・・四郎の首塚は戦乱の中で失われてしまってDNA鑑定は無理。
状況証拠だけではいかんともしがたい風説なんですよね。



もともと四郎の秀頼落胤説は四郎の肖像画や、実際本人が使っていたという
馬印(戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に備の旗や自身の周りに置いた印。
旗の形をしたものは旗印、旗の形ではないものを馬印とする)
が、豊臣秀吉のものと同じ
瓢箪(秀吉は金瓢箪。四郎が金だったかは不明)であることなどから、大坂夏の陣において
死去した秀頼が大坂城から脱出して九州へ逃れ、四郎が生まれたという話が元です。
四郎(豊臣秀綱)は豊臣の遺児・・・つまり、孫だったというわけですな。

島原の乱は秀吉没後約40年後に発起しているから、まぁ、計算上はありえる話です。
ちなみに近年島原で秀吉のものとされる金の瓦が発見されているのも理由のひとつです。
(豊臣の威を借りて瓢箪にした、という説あり)


さらには、この島原の乱をバチカンはキリシタンの戦いだと公式に認めていません。
つまり、キリシタンが起こした戦いならば「切支丹殉教記」やバチカンも殉教者として
認めているはずなのに、どちらにも島原の乱は除外扱いされてるんですよね。
これがまた、四郎の豊臣遺児説に発破をかけています。
島原の乱はキリシタンの戦いなどではなく、豊臣VS徳川の争いだったと。

でもさー、それならそれでもっと正当に自分達のやっていることを主張したと思うんだ。
豊臣家の正式な跡取を抱えているんだからさ。でも当時の人たちは豊臣の跡取ということを
一切口に出している様子はないんだよね。実際の島原の乱の仕掛け人と言われている
四郎の義兄も一切それを宣伝文句にしていない。じゃあキリシタンの戦いでないなら、
どういうことか。それには一説あって、自分達の激しい取り立てや差別、拷問などのせいで
一揆が発生し、それを幕府側に咎められるのを恐れた役人が当時禁じられていたキリシタンの
せいにした、というもの。それならば浪人や農民のほとんどがキリシタンとして殉教した
事にはならないから、確かにバチカンも認めないのでは・・・と。うーん、一理ある。
しかしながら四郎は実際に十字架の旗を掲げて戦い、その当時の旗が現在も残っているから
(銃痕、血痕つきで)全員がキリシタンではなかったとは言いがたい。
結果、以下にも記述しますが、キリシタン+農民+浪人の合同軍だったと言えます。


三つめの理由は軍資金の出所がはっきりしないということ。
年貢を納められず苦しんだ農民達が起こした戦いであるにもかかわらず、
三ヶ月もの間篭城出来た食料や資金はどこからきたのか。
秀頼と共に消えた豊臣の財宝を使っていたからではないか。

これははっきりとした史科を調べきれなかったのですが、処刑された農民の腹を裂いたら
草しか出てこなかったと当時の記録に残されている通り、必死だったってことじゃないでしょうか。
資金についてはなんとも言えませんが、四郎の姉の兄の弟(だったかな?)はかなりの資産家。
四郎の学費も肩代わりする内容の手紙が残されているらしいので、わざわざ豊臣の財宝と
銘打たなくても何とかなりそうな気がするんですが。第一、大阪から九州まで秀頼と財宝を
抱えて逃げるのはかなり無理がありそうに思えます。万が一、秀頼が逃げ延びていたとしても
財宝まで持って行く余裕はなかったと思うのですが・・・。

だって秀吉のなくなった財宝って7億5千両って言われてるんだよ!?
25両1包みで40個入った千両箱を持ち運んだとして(いや、さすがに剥き出しでは
ないだろう・・・)、1両=3匁=37.5グラムに箱の重さ、おおよそ4キログラム。
合わせて15キログラムがひとつの千両箱。それを7億5千両で割ると・・・75万個。
11,250,000キログラムになるよ!?どれだけの人員をさけばそれを大阪から
九州は鹿児島まで運べたというのでしょうか。しかも徳川に内緒で(絶対無理)。
島原の乱は豊富な資金などは一切なく、塀すらも崩れた廃城に掘っ立て小屋を作って
わずかな備蓄米と草、そして海草で耐え忍んだ辛い篭城戦だったようです。


最後の理由は幕府がこの鎮圧に12万もの軍勢を出し、なおかつ残虐な皆殺しを行ったということ。
そうまでして鎮圧しなければならない特別な理由があったのか。

確かに、時の将軍家光は(ホモですが)智将として有名だった人。
徳川の封建制度を確立し、後に300年続いた江戸幕府の礎を築いた人なんですよ。
家光は(ホモだけど)家康に匹敵する能力を持ち、優れた将軍として誉れ高い人物でした。
その人がいくら一揆を起こしたとはいえ、民衆を大量虐殺するはずがないと。
けれど島原の乱がきっかけで幕府は鎖国を完成させます。つまり、逆をいえば島原の乱があって
それを鎮圧しなければ鎖国を徹底する理由がない。かねてから鎖国をしたがっていた家光が
キリシタン一揆と聞いてしめた!と利用するのも合点がいくかと。つまり皆殺しをし、
キリシタンを長崎でさらし首にすることで外国人にも、外国人かぶれの日本人にも
圧力をかけることが出来た、と。そのための壮大な犠牲だったわけですな。

それに加えて、島原の乱は裏切り者一名を除いて全員皆殺しになったと有名ですが、
実はそんなことないんですよね。実際に乱に参加した人たちのほとんどが”立ち直った者”、
すなわち一度キリスト教を棄教して、その後再び信じた人だと言われています。
その証拠にクルスは急遽創ったものが多く、天地が逆のものも少なくなかったそうです。
そうした人たちの中にはさらに寝返って幕府に助けを求める者もいました。
彼らは自分がキリシタンではないと言えば助命され、お咎めもなしに農耕に戻ったそうです。
幕府軍総攻撃の前にも幾度か「キリシタンは処刑するが、無理無理にキリシタンを
勧められた者は調査吟味して助命する」と通達しています。いきなり皆殺しにしたわけじゃない。
さらに言うと四郎の小姓も十二名、落ち延びてます。正確な数まではわかりませんが、
数千人が落城し命を助けられ、なおかつ女性もそのほとんどが首を取られていません。
幕府側はあくまで四郎を生け捕りにしようとしていたので、15〜7歳くらいの男児も
けっこうな数、生け捕りにされています。実際に犠牲になったのは浪人(武士)、
それから非戦闘員の男児です。ここらへんはもう皆殺しも皆殺し。
罪状関係なく命を奪われていっています。
結局のところ皆殺しにしたというのは幕府の誇大広告だったわけですね。
だから徹底的な鎮圧をしたのが豊臣勢力をつぶす為、というのも言い切り難いところです。



そんなわけで、諸説理由はありますが決定的なものがひとつもない。
どれも状況証拠であり、なおかつ反論もすべて状況証拠なんだよね。
豊臣落胤説が後世になってから創られたと考えたほうが妥当な気がします。

じゃあ歌とはなんぞや。
実は秀頼が逃れたという鹿児島地方のわらべ歌で以下のようなものがあるそうです。

♪花のようなる秀頼さまを
♪鬼のようなる真田が連れて
♪退きも退いたよ加護島へ(※退きものいたり鹿児島へ)

前にこの日記でも書きましたが、真田幸村が秀頼を大阪城から連れ出して
鹿児島にかくまった、という内容の歌ですな。
当時秀頼様は23歳。それはもう蝶よ花よと育てられた御曹司ですから
農民たちから見ればさぞ花のように輝いていたことでしょう。
でも忘れちゃならん。父親はサル・・・禿ねずみ秀吉だ!!!
ねねの遺伝子が強くても、孫で隔世遺伝しないとは限らない。
真田幸村が秀頼を連れて逃げているというシチュエーションは萌えるがそ(以下略)。

そうそう、本題はそこじゃない。
昔から九州には秀頼が隠れていた、という逸話があるらしい。
秀頼のものと言われている墓も存在するしね。けれどそれならば義経にだって
ありとあらゆるところに墓があるし、邪馬台国もどこにあったのか諸説ある。
実は生き延びていた秀頼が地元の郷士の娘と結婚して子供を産んだ、
または秀頼の子供であった国松(秀吉の孫)が同じく生き延びて四郎として名乗ったのか。
火のないところに煙は立たないということわざの通り、何かしら因縁めいたものを
感じなくもないけれど、それならば豊臣家を前面バックアップしていた諸国大名
(加藤清正など、有名どころはたくさん徳川の世でも生き残っていて潰れた豊臣家を
擁護している)が知らないはずはないと思うのだけれど。
それに一緒に逃げた真田幸村はどこにいってしまったのさ(謎です)。

これには織田信長の子孫がいることからも推測されるものだけれど、
豊臣の姓は何も秀吉だけが使っていたというわけじゃない、ということが上げられます。
つまり、豊臣という姓を持つ一族がこの地で墓を持ち、それが後に秀頼の墓ではないかと
噂された、と。実際、第二豊臣家は大阪城炎上の後も存続しています。
それに真田幸村も当時は豊臣姓を名乗っていたことから、豊臣という名前はわりと
残っていたのではないでしょうか。(※秀吉は気に入った家臣に豊臣姓をあげていた)

第一、この歌というのもかなり後世になってから歌われていたのではないかと疑問が。
そうでなきゃ人前で「実は秀頼が生きてるんだぜー」なんて歌えないでしょ!?



長々書いてしまいましたが、結局のところYESともNOとも言えないままなんだよね。
豊臣勢力との争いか、というと原城の発掘調査で出てきたおびただしい数の、
クルスを首から下げた人骨に理由がつかないし、かといってキリシタンだけが
闘ったのかというとバチカンが殉教者として認めていないことから言い切り難い。
瓢箪の馬印を使い秀頼の息子といいながらも豊臣擁護派は全員スルー。

なので、私はあえて主張する・・・


天草四郎が豊臣の遺児だったかが重要なのではなく、






真田幸村が秀頼を連れて逃げた。


















つまり、真田幸村×豊臣秀頼
の図式が成り立つことが、





この逸話の大事な萌えポイント
だということを!!!!!





・・・・・・・・。
うん。いや、だって、しょうがないじゃん。
四郎=豊臣落胤の肯定も否定も出来ないんだもん。

そんなわけで、真田幸村は本名じゃない、というトリビアでお別れしましょう!
アッデュー!!!!!






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