おまけの卯月くん


ここでは男色についての記述を行っています。大きな項目にはならなそうなこまいものを集めています。
時間がなかったんです、勘弁してください・・・しくしくしく。ってことで、つらつらと駄文をどうぞ。
フォントサイズは「小」ないし「中」にしてもらえると体裁が崩れなくてとっても助かります。


藤原実資の夢精



長元二年(1029)九月二十四日、藤原実資はこんな夢を見ています。

「今暁夢想す、清涼殿東廂に関白下官と共に烏帽せずして懐抱し間に
臥す、余の玉茎木の如し、所着の白綿衣太凡なり、恥ずかしと思う程に
夢覚めおわんぬ、もし大慶あるべきか」

だいたいの直訳でいうと、「私は昨日、夢を見た。清涼殿で藤原道長の
息子・頼通に襲い掛かって烏帽子もすっ飛ぶくらい激しく抱きしめた。
すると私の下半身は木の根のように固くなり(勃起して)、自分でも
これはさすがに恥ずかしいと思ったが、これはきっといいことが起きる
前触れなのだろう」みたいな感じです。平安時代はけっこう男色は
フツーな感じで、盛んではありませんでしたが別に恥じることでもありません
でした。だから思わず実資が勃起してしまったとしても悪いことではないの
です。・・・とはいっても、当時彼は72歳。そして勃起させるほどに彼を
興奮させた頼通は37歳。じいさん大ハッスルです。「男色は弘法より
始まる」と言われますがそれよりも前に大ハッスルしているじーさんが
いるので男色は根深いです。でも私はきっと、男であったとしても
「いやー、今日エッチな夢見て勃起しちゃったよー」なんて日記に
書いたりはしません。「いやー、今日あたし好みのホモがまぐわってる
夢見て興奮しちゃったよー」くらいは書くかもしれませんが・・・。
ちなみに藤原実資って誰ぞやって人はぜひこの機会に調べてください。




赤裸々男色体験日記「台記」


一部で有名な日記『台記』の著者、藤原頼長は皆様ご存知ですか?この人、
かなりな人数食ってます。しかもそれを事細かに日記に書き残しています。
彼は道長と頼通から一字づつもらった名前を持つ、頼通の曾々孫なのですが
この日記がとにかくすごい。誰といつどこでヤったとか、誰それとヤるために
こんな手段を使ったとか、あげくの果てにはその感想まで書いてますヨ!!
木曽義仲とエッチしたときなんて「奴はうまかった」とべた褒めしているし、
美男の佐伯貞俊を鳥羽法皇からもらった(!!)ときは彼のことを
「容貌甚だ麗し、潘岳の輩なり」と満足げに褒めています。潘岳は
中国の文人でかなり美青年だったことで有名な人。ただれてる、
ただれてるよ、このオッサン!!ま、おっさんとはいっても37歳で
他界しているので上のじいさんよりはマシなんですが。この鳥羽法皇
という人物もなかなかな好き者で、白河と共に美しいものを好んで
小姓の原型を作った人です。一応法皇は仏教者なので美女を
はべらせて淫行にふけるわけにはいかず、稚児を真似て美少年を
傍に仕えさせたわけです。当時の僧たちは「お釈迦様も妻子という
俗世から離れるために男色に励んだんだから問題ナッシーング!」と
いう大義名分ひっさげて遊びまくっていた様子。楽しい人生だな、オイ。
そんな鳥羽法皇と一緒にいて頼長がまともな人になれるとは思わない。
「台記」にはこんな一文もある。「依召候簾中、語曰、奏舞日、最初
令奏無面形之舞、見舞人容貌之後、令奏有面形之舞、是古説也、
又仰曰、此寺舞人之中、有容貌壯麗者、今日有其人乎【法王爲人好美人、
故有此言】、對曰、所候也【名公方】」
漢文なんてわかんなぁーい、というお嬢さん方、大丈夫!わたしもさっぱり
わかりませんから(ダメじゃん)。ま、四天王寺の舞人に美少年がいるって
聞いた好き者二名は本来なら面をつけて踊るはずの舞人に面を外させ
舞台に上げさせ、例の容貌壯麗な舞人がいるかどうか確認したわけだ。
そしたら本当に美少年がいて俺ちょっと気に入っちゃったよー・・・なんて
ことが書いてあるわけです。さらに次の日の日記は笑えますよ。
鳥羽法皇は仏事の合間を縫って頼長に妄想を語りまくるのです。
それが引き金になって頼長は例の美少年舞人を自分の臥内に
引き入れて通じている・・・つまり、エッチしているわけです。昨日の
今日だよ、おにいちゃん!!手が早すぎだよ、おにいちゃん!!
いきなり仏事中に妄想語り出してる鳥羽法皇もおかしいけど、
次の日にもう願望成就していてさらにはその次の日までセックス
してる頼長もおかしいよ!!ちなみにこんなことかいてますが頼長は
抱くよりも抱かれるほうがお好みだったそうです。だから木曽義仲には
「抱かれた」そうです。このほかにも父親のお古との情事、正妻の兄弟
との情事、さらには男だけで3Pしちゃったーという記述まであります。
どこまで乱れれば気がすむんだ、このオッサン。なお、昔の記述では
会合やら通じるやら濫吹を行うやら臥内に引入るやら懐抱すなどは
セックスのことを表し、一番分かりやすい例でいうと共に精を漏らす
なんて書かれている場合もあります。さ、目を凝らして古い日記を
ごらんあそばし!(笑)




陰間茶屋ガイドブック


平賀源内もホモです(断言かよ)。彼の『男色細見』は陰間茶屋の
ガイドブックとして有名。江戸時代、1775年には男色はすでにブームを
終えていましたが、それでも55軒の店が残っていたそうです。すげぇ
数ですヨ、55軒って。232人の陰間がいたそうですヨ、よりどりみどり
ですネ。ちなみに陰間は男性客だけじゃなくて女性客もとっていた
ので今時でいうと、ホストのホモ有り版??彼らの値段は現代でいうと
かなり安い値段でした。料金の相場は「大」と「小」があって小は酒と
肴付きで1分、大は肴の品数が増えて1分2朱。現代の値段に換算
すると1分=4朱=およそ7500円なので小は7500円、大は11250円。
・・・安ッ!!ホテル代金だけじゃん!ま、陰間の皆さんはたいていが
貧乏だったり破算したりでお金がない人が切り売りした子供だったので
相場が安いのも道理というもの。当時、幕府によって米一石が一両と
されていたわけだから、(1両はおよそ3〜4万。今より物価が安いもので
換算すると10万くらいの価値にもなる)その安さは泣けるほどです。
陰間の女性版、遊女よりも格の低い夜鷹も同じくらい安かったようです。
ちなみに香具売と呼ばれる香料を売っている男の子たちも男娼です。
そして薬売りもモノによっては男娼でした。旅人相手に薬を売る少年は
同時に春もひっさげ、つまるところ本職は陰間で売っている炎症の薬は
ローション代わりにしたり陰間の修行をするために木製の張形をお尻の
穴に入れるときに
擦れて起きる
炎症を治すために使われていました。
うわー、生々しいよ!木製じゃどんなにやすりで磨いていても擦れて
痛いだろうよ!それで一晩7500円!?江戸時代は7〜8回が普通
だったっていうから(※俗説です)、一晩で7〜8回も突っ込まれてさらに
たぶんそれ以上イカされまくって7500円!?一週間もたてばカラカラ
ですがな。体力勝負を通り越してますがな。そんな男色ですが、別に
男色は陰間相手だけではなかったわけです。義兄弟と呼ばれる男同士の
ラブ。あまりに激しすぎて幕府が封じた義兄弟ラブ。気に入った若衆に
兄貴がいれば力づくで奪い取り、あんまりしつこかったら切り殺してしまえ
という激しい殺し愛。あまりにも流行ったから幕府も止めるわけだわな。
もともと妻は子供を作るためにセックスし、恋愛は男同士でやればいいと
いう風潮だったものがキリスト教によって代わっていったのも幕府が男色を
禁止する理由だったりもします。外ヅラをよくしたわけだ。とはいっても
「日本の男娼の色艶は女性の倍以上だ」とかコメントしてる外人もいますが。
本当に本当にどうでもいいことですが、当時舞台子(舞台に上がって女形を
やりながら男娼でもある少年)には野郎紋楊枝というグッズ(笑)があって、
気に入った舞台子の紋が入った楊枝を使う兄分(攻め)が流行ったそうです。




明治の学生はホモだらけ


時代が明治になってくると学生たちの間で男色が流行ります。ほんとに
某ゲーム(バラバラ)の世界観ですな。当時はまだ女学校はったものの
女性と同席して勉強する環境がなかったため、地方からきた学生たちは
そのほとんどが寮住まいだったわけです。そんな学生たちの中の、薩摩
出身者たちが男色を広めたといわれています。同級生同士のラブあり、
下級生の集団レイプあり、他校の生徒を待ち伏せて襲う
のも日常茶飯事。
そんな彼らが育って有名文学者となるわけです。ちょっとアホっぽい。
里見弓享と志賀直哉は肉体関係はないけれど、里見の片思いは
「君と私」という作品にありありと書かれています。志賀さんは攻め
だったそうです(笑)。なんでかというとその「君と私」の中で志賀の
ことを里見が「二才(にせ)さん」と呼んでいるからです。二才(にせ)
というのは要約すると攻め。反対に受けのことは「稚児」さんと言います。
里見は153センチくらいしかなかったから、ちごさんなのも頷けるかも。
里見は12歳の頃から志賀にメロメロになっています。志賀は当時5歳
年上だったから17歳。もう志賀のやることなすことべた褒めしてます。
この「君と私」を見た志賀は大変憤怒しましたが、理由は事実をただ
並べただけの作品だったこと、だそうです。男色についてはなんの
コメントもねぇのかい!という全国のお嬢さん方から突っ込みがきそう
ですが、これがまたねぇんですわ(笑)。さて、もうひとつ作家ものを。
森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」を知ってますか?イタ・セクシャリスと
読むんですが日本語訳は性的生活です。「性的生活」(笑)。
別にエッチしているシーンはまったくありませんが執拗に硬派と
呼ばれる男色好きな方々から狙われる場面が出てきます。
以下、抜粋。

学校には寄宿舎がある。授業が済んでから、寄って見た。
ここで始て男色ということを聞いた。僕なんぞと同級で、毎日馬に
乗って通って来る蔭小路という少年が、彼等寄宿生達の及ばぬ
恋の対象物である。蔭小路は余り課業は好く出来ない。薄赤い
輝っぺたがふっくりと膨らんでいて、可哀らしい少年であった。その
少年という詞が、男色の受身という意味に用いられているのも、僕の
為めには新智識であった。僕に帰り掛に寄って行けと云った男も、
僕を少年視していたのである。二三度奇るまでは、馳走をしてくれて、
親切らしい話をしていた。その頃書生の金平糖といった弾豆、書生の
羊羹といった焼芋などを食わせられた。但ししその親切は初から少し
粘があるように感じて、嫌であったが、年長者に礼を欠いではならない
と思うので、忍んで交際していたのである。そのうちに手を握る。
頬摩をする。うるさくてたまらない。僕Urnigたる素質はない。もう帰り
掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねば
ならないようにせられる。ある日寄って見ると床が取ってあった。
その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が
赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸だからこの中へ這入って一しょに寝給え」
「僕は嫌だ」
「そんな事を言うものじやない。さあ」
僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の厭悪と恐怖とは
高まって来る。


絶体絶命です(笑)。しかもこの後「手伝ってやる」と他の学生
までもが手を出してきたりするんだけど・・・哀しいかなヤってない。
で、学生の親切が最初から粘っこかったんだって(笑)。手を握られて
頬擦りされた
んだって!!(笑)もうターゲットロックオンです。学生、
ヤりたくてたまらん様子です。そしてとうとう床が取ってあったそう
ですよ!!今夜こそ一緒に精をもらしちゃうもんねー、と勇気を
出して誘ったのに鴎外ちゃんは冷たかった。エッチしちゃっても
よかったのに。作家たるものいろんな経験つまんといかんよ。
ってことで、同じくイタからもう一本抜粋!

硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の
事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。
鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元且に第一に読む本になって
いるということである。三五郎という前髪と、その兄分の鉢鬢奴との
間の恋の歴史であって、嫉妬がある。鞘当がある。末段には二人が
相踵いで柑腫いで戦死することになっていたかと思う。これにも
挿画があるが、左程見苦しい処はかいてないのである。
僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の
中では、僕と埴生圧之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は
江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は
朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が
武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は
埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は
生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
学校に這入ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を
割り当てられた。同室は鰐口弦という男である。この男は晩学の
方であって、級中で最年長者の一人であった。白菊石の顔が
長くて、前にしゃくれた腮が尖っている。痩せていて背が高い。
若しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないので
あったかと思う。


うわー!うわー!免れないのであったかと思うんだって!!でも
哀しいかなエッチしてない・・・(しつこい)。何故硬派じゃなかった
のだ、鰐口!!!女色に耽ってる場合か!ばかもの!!!
でも柘植ちゃんは美人だったみたいですネ。やっぱりこの時代も
かわいい子がもてたみたいですが、彼は根っからの軟派だから
免れたって・・・君は根っからの軟派じゃないのか、鴎外くん!!
軟派はおねーちゃんの裸の画を見て、硬派は男同士のラブ
ストーリーを元旦から読むらしい。しかし挿絵には股間が描いて
ないらしい。ちっ。・・・ええと、ナニが言いたかったんだっけ。
とりあえず、明治の文豪家にはけっこうこういった体験談を
書いた人がいますので、興味のある人はレッツチェック☆


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