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森蘭丸異聞 - RANMARU MORI - 第三十一章
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天正十年、六月二日。 本能寺の塀の周りを水色桔梗の旗が取り囲んだ。 過ぎし五月二十九日、水攻めを行っている羽柴秀吉や堀秀政の応援に向かった信長は わずかな近習を連れ本能寺へ入った。 その矢先の出来事である。 「敵襲!敵襲です!!」 慌てふためいた小姓の声が城内に響き渡る。 信長の腕の中で眠っていた蘭丸は驚き目を覚まして立ち上がった。 窓から顔を覗かせるとその軍勢のすさまじい行進が目に入ってくる。 蘭丸は目を瞠りながらごくりと息を飲んだ。 朝焼けに赤いたいまつがちらついている。 明らかに武装した者たちが水色桔梗の旗をひらめかせ進軍してくるということは、 まず謀反と考えて相違ないだろう。 水色桔梗・・・そう、明智光秀の紋章だ。 「なぜ・・・明智殿が・・・・」 呟きを漏らした途端、ふいに明智の様子を思い出した。 ”・・・・一晩、考えまする。どうか一人にしてくだされませ” あの言葉通り、考えた結果がこの謀反であったとしたら。 蘭丸はまるで喉が灼熱に焼かれるかのような錯覚を覚えた。 「・・・むう、どうした?」 そこへ信長も騒ぎに起き出したのか声をかけてくる。 蘭丸は白綾の一重の着物に身を包んだ信長の前へゆっくりと正座し、声重く苦しげに呟いた。 「上様・・・・明智殿の・・・謀反にございまする」 「・・・なんだと!?光秀めの・・・謀反だと!?」 信長はにわかには信じられない様子で蘭丸の身体を押しのけると窓を見下ろした。 そして本能寺へと怒涛のように押し寄せる軍勢を目の当たりにする。 共も少なく、その少ない手勢の中もほとんど戦経験のない小姓ばかりである好機を 用意周到な明智が見逃すはずなどなかった。 「なんと・・・!なんという早まったことを・・・今一歩で、 天下統一果たせんというのに・・・!」 信長は怒りに身を焼き、握った拳に血を握り締めながら外下を見下ろしていた。 そこへ傷つき苦しむ小姓が一人、障子を倒しながら飛び込んでくる。 「う、上様・・・・!敵の軍勢は・・・・い、一万二千・・・!」 そう一言だけ告げると小姓は力尽きその場に崩れ落ちるように息を引き取った。 蘭丸は傍に置いてあった真っ白な小袖に袖を通すと、戦袴を締め長刀へと手を伸ばす。 「・・・・!お蘭!どうするつもりじゃ!?」 戦う姿勢を見せた蘭丸に振り返った信長が声をかけた。 「戦いまする。上様のお膝元での狼藉、許せるものではござりませぬ!」 蘭丸の長刀を持つ手は奮えていた。 信長同様、蘭丸もまた明智の謀反に怒り心頭していたのだ。 けれど敵は一万二千。 迎え撃つ織田の手の者は三桁にも上らぬほどだろう。 むざむざ死ぬとはわかっていても蘭丸にとって引くわけにはいかなかった。 「うおりゃああああ!」 そこへ怒鳴り声のような野太い声が響き渡り、どたどたと足音が聞こえると階段から 数名の明智軍が姿を現す。 信長は白一重の着物のまま弓を片手に取るとそれをきりりと引いて明智軍の一人を射殺した。 どすっと鈍い音が響き額を射抜かれた武者の身体ががくりと崩れる。 「うぬら、明智の手の者はすべて射殺してくれよう!」 信長の怒声が響いた。 そのあまりの迫力に敵は躊躇して二の足を踏んでいる。 蘭丸もまた長刀を構えると硬直している男の喉笛を狙って刃を立てた。 真っ赤な返り血が蘭丸の白い小袖を染め上げてゆく。 「そらそら!」 続けざまに信長も弓を射った。 どすどすっと額が割れ、なすすべなく男たちが重なるように倒れていく。 階下では他の小姓たちが奮闘しているのだろう音が響いていた。 「・・・・・上様」 目の前の敵を倒し、次の敵が上ってくる合間を見計らって蘭丸は信長の前へと跪いた。 「君主たる者、身分の低い者たちと戦うことはあいなりませぬ。どうか・・・」 蘭丸はゆっくりと、畳の上についた両手の上へ頭を下げていった。 「ご自決、くだされませ・・・」 その声音は緩く振るえその無念を伝えるに値している。 蘭丸にとってこれがどれほど辛い選択かは言うには及ばなかった。 けれど無様に信長を殺させることは絶対に出来ない。 武士らしく自害し、そしてその死体を誰の目にも留まらぬよう本能寺を 焼きつくすしか術はなかった。 手勢少なくこの大軍に打ち勝つことは不可能であるとすれば、天下の覇者を 首だけに晒し辱めないためにはそれしかないのだ。 「お蘭・・・・・」 信長はしばし呆然と立ち尽くしていたが、蘭丸の気持ちを悟り弓を床へと置いた。 そして頭を下げたまま動こうとはしない蘭丸に近づくとその背を包み込むように 上から抱きしめる。 言葉はないが信長が蘭丸を労わり、そして愛しんでくれることが分かる抱擁だった。 知らず、蘭丸の目から涙が零れ落ちる。 仙千代が死んで、菊千代ともう二度と泣かないと誓ったあの日から、 久方ぶりに流れる透明な涙。 怒りとも悲しみともつなない感情が蘭丸の心を占領する。 「・・・・・・・・・・大儀で、あった」 信長はそういうと蘭丸の言葉に従い、自害すべく脇差を一本握ってひとつ奥の部屋へと歩き出す。 瞬間、蘭丸は堰を切ったように顔を上げ信長に向かって叫んだ。 「・・・・上様!蘭は・・・・蘭丸は幸せでした!上様にお仕えし、上様と共に 歩いてきた道を誇りにしておりまする!この先になにがあろうとも・・・蘭丸は 上様とともにおりまする。上様に全て捧げ、愛してゆきまする・・・・・!」 二人で過ごしてきた日々が、走馬灯のように脳裏を横切っていく。 初めて仕えたあの日。 共に漬かった湯の熱さ。 触れ合う指先の感触。 囁きあった甘い声音。 大事なものを失ったときの慟哭。 誓い合った遥かな未来。 そして、抱き合う確かな体温と鼓動。 すべてが今、消えていこうとしていた。 「・・・・・お蘭!!」 たまらず信長が振り返り蘭丸のもとへと駆け寄ると、その肩を強引に抱き寄せ 奪うように口付けを交わす。 触れ合うというよりもぶつかるというほど激しい口付けは互いの激情を偲ばせ 蘭丸の涙をさらに流させた。 「・・・っ、ん・・・・」 交じり合う舌先はまだ確かな感触を与えてくれるというのに。 切なさに胸が張り裂けそうになる。 どうして天はこの人を助けてはくれようとしないのか。 謀反という形で終わらせるしかないのだろうか。 何度も何度も啄ばみを繰り返しながら蘭丸の心は信長のことで一杯になってゆく。 ただ愛しい人を助けたい。 それだけが叶わない苦しさと痛み。 蘭丸は立場を忘れ無我夢中に信長の首へと腕を回して抱きつき、 激しく抱擁しながらその唇を貪った。 時間を止めることができるのならば、この手を離さなくてもすむのに。 戦火など夢のように溶けてしまってくれれば、明日もまた信長の顔を見ることができるのに。 願いはむなしく空に消えても、この最後の口付けだけは確かな証として二人の胸に刻み込まれる。 蘭丸は信長の胸に頬を寄せぎゅう、と力の限り抱きしめた。 「蘭も、参りまする。上様お一人で逝かせはいたしませぬ」 「・・・・うむ。最後まで苦労をかけるな・・・・・」 そしてゆっくりと、抱擁が解かれた。 「いたぞ!信長だ!」 突然敵の声が階段のほうから響き渡った。 見れば坊丸と力丸が押されつつ敵が上ってくる。 蘭丸と信長は互いに視線を交わし、一度頷きあうと信長は奥の部屋へ、そして蘭丸は 長刀を持って敵を迎えた。 「あっ、兄上・・・!」 「坊、力、ここはかならず死守するのだ!」 蘭丸の力強い声に弟たちが励まされる。 視線の先には明智軍の四天王が首をそろえていた。 「あれに見えるは森蘭丸長定・・・!討ち取れ!討ち取るのだ!」 そう安田作兵衛が叫ぶと、坊丸、力丸そろってその間を塞ぎ太刀を敵へと向ける。 「やあぁあーーー!森坊丸、これにあり!」 「同じく、森力丸、これにあり!」 二人は蘭丸への道を通さぬとばかりに勇ましく握った刀を振るい、敵陣へと突っ込んでいった。 それを受けた四天王は槍を振り回しながら応戦してくる。 「ぬう、小童め!どけい!うぬらに用はない!」 蘭丸との距離をあけられてしまった箕浦と安田は烈火のごとく怒り その豪腕で坊丸、力丸を押してゆく。 階段から蘭丸のいる部屋へは障子をひとつ、さらに信長のいる部屋へは もうひとつ障子を超えねばならない。 その短いようで長い距離に四天王たちは苦戦を強いられた。 しかし坊丸たち二人で幾人もの敵を打ち崩すことは難しかった。 隙を突いて安田が蘭丸の部屋へと侵入し、陰揺らめく信長の身体に向かって 槍を突き立てたのだ。 「・・・・ぬう!」 障子ごしに信長の苦しむ声が聞こえた。 瞬間、その槍を払うように蘭丸の長刀が虚空を切った。 「退けい!!・・・・・貴様、森蘭丸を見知らぬか!」 まるで雷が落ちるがごとく激しい怒りに身を焼いた蘭丸が怒鳴り声を上げる。 このままでは信長の自害すらままならぬからだ。 ふたたび信長との距離を蘭丸に阻まれ広げさせられた安田は悔しさにぎりりと歯軋りをする。 「小姓風情が生意気な!」 安田が槍を構えた瞬間、その後ろから坊丸の叫び声が上がった。 「うぁあああーー!!」 ばっと赤い血が滴り、坊丸が切られたことを障子の赤が物語る。 そして続けざまに力丸の身体が崩れ落ちるのも垣間見えた。 「・・・・おのれ!!」 蘭丸は安田の槍の柄をついて払うとその脇に長刀の刃を突きつける。 それを避けようとした安田は重い具足のせいかぐらりとよろめいて転がるように 廊下へと倒れこんだ。 「織田信長が家臣、森蘭丸長定!・・・・・ここから先は一歩もとおさぬ!」 そう叫ぶと蘭丸は長刀の先端で揺らめくろうそくの灯りを倒し、返す手でもうひとつの ろうそくも畳へ落とした。 めらり、と赤い炎が揺らめくとまたたくまに畳の目にそって火が回ってゆく。 蘭丸はその紅蓮の炎の幕を背に四天王との間にある障子を蹴破って彼らと合いまみえた。 「・・・・・森の首を取れば我らが主君もお慶びになるだろう!」 箕浦の言葉に賛同したように四天王が構える。 「簡単にはさせぬ!織田に弓引いたことを後悔させてくれようぞ!」 蘭丸の凛とした声が響いて、それが合図となったのか安田が腕を撓らせ襲いかかってくる。 その刃を受け流しながら蘭丸の足が地を蹴った。 そしてまるで龍が舞うがごとく美しく宙に浮くと安田の腹めがけて蹴りが決まった。 「うぅ!」 低く呻いた安田が大地に伏していると今度は四方田が横から太刀で切り裂いてくる。 蘭丸は鬼気迫る迫力でその刀を一喝すると、その腕を真一文字に切りつけた。 「うわぁ!!」 真剣ががらんっと音を立てて板張りの廊下へ落ちる。 一瞬の気の緩みも許されない状態で、蘭丸はゆっくりと息を吐き出しながら集中を高めた。 その隙のない状態にさすがの四天王も足踏み状態になってしまう。 「どうした、来ないのならばこちらから参るぞ!」 蘭丸は長刀をくるりと旋回させ転がる安田の心臓めがけて刃先を突きつけた。 しかし安田は身体を捻ってそれを避けようとする。 「・・・・っ!!」 どすっと鈍い音が響いた。 心臓めがけた長刀が安田の股間を貫いたのだ。 「ぎゃあああーーーー!!」 一瞬遅れて断末魔のような叫び声が炎の間を駆け巡った。 風が凪いでさらに炎を煽り立てていく中、蘭丸は長刀を引いて再び心臓を狙い腕を振るう。 その、一瞬であった。 安田との戦いに気を取られていた隙をついて四方田が蘭丸の腹を刀で突き破ったのだ。 「・・・っ!・・・・ぐ、ふっ・・・・!」 ぐらりと傾いた体を斜めに落としながらも蘭丸は四方田の刀を素手で捕らえ その喉笛狙って刃先を突き出した。 しかしその切先が四方田を貫く前に、四方田は刀から手を引いて後ろへと飛びのいた。 すると今度は安田が蘭丸の長刀を掴んで引っ張り、よろめいた蘭丸の 喉笛めがけて短刀をつきつける。 「・・・・・・・・ッ!!!!」 目の前が、赤く染まった。 炎のように、血液のように。 痛みはさほどに感じられない。 きっともう、精神など麻痺してしまっているのだろう。 そう揺れる視線の中で、信長が去っていった部屋の障子が見えた。 「・・・うえ、さ、ま・・・・」 言葉にならない呟きが唇の上を滑って落ちる。 それがどんな言葉なのか聞く者は一人といなくても。 信長のもとへ指先を伸ばしたが、それが何かに触れることなく蘭丸の意識は途絶えた。 背に炎を感じながら、信長は脇差を前にして目を閉じた。 まさか天下統一目前に夢破れるとは思ってもいなかったことだ。 信長にとって自刃とは苦渋の選択でしかないが、蘭丸の想いを感じれば感じるほどに それが最良の選択に思えた。 「・・・・・」 だんだんと熱さが背を焼いてゆく。 きっと蘭丸がこの火を放ったのであろう。 その奮闘は障子ごしに耳へと入ってきていた。 しかし炎が本能寺を食らっていく音に蘭丸の声も最早聴こえなくなっている。 信長は両手で脇指しの柄と鞘を持って左右へ引いた。 きらりと炎の明かりを反射して刃先が眩しい光を放っている。 「・・・・・お蘭よ。しかと、ついてくるがよい」 信長は鞘を放り投げると、空いた左手の人差し指で自分の唇へと触れた。 そこにはまだ先ほどの接吻の温もりが残っているというのに。 悔しさに信長の顔が歪んだ。 自分の死よりも蘭丸の死のほうが辛いなどと、君主にあるまじきと また蘭丸に怒られるであろうか。 そう思うと信長の指先に力が篭った。 最後の最後まで蘭丸に心配をかけるのはよしとせぬ、と。 信長は自分の腹へと脇差の切先を添えた。 そこへひとつの火の粉がひらりと舞い降りてきた。 「・・・・・」 視界に入り込んだそれは揺らめく炎の熱気に空へと消えることもなく、かといって 畳に落ちることなく浮遊している。 紅く、芯が白く燃えるその火の粉に、信長は緩く目を瞠る。 「もしや・・・お蘭か?」 そっと語りかけるとその火の粉はゆらりと揺れて信長へと近づいた。 そしてその肩に触れるか触れないかのところで燃え尽き、すぅ、と姿を消してしまう。 「・・・そうか、先に逝ったか。悪いことをしたな。・・・・もう、待たせぬ故」 信長は火の粉が消えていった己の肩に片手を添えてそう呟いた。 本能寺を焼く炎はその勢いをさらに増し、蘭丸の首を取った四天王たちの侵入を 拒んで燃え上がってゆく。 それはまるで蘭丸の意思のようで、明智軍は成すすべなく本能寺から 撤退することをやむなくされた。 静かなる最後の一時を、 艶やかに彩る芳香の君よ。 愛しさの花弁が咲き誇る今。 天高く舞う花に添えて、 緩やかに風、凪がん。 天高く舞う、花に、添えて・・・。 |
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