森蘭丸異聞
- RANMARU MORI -

第二十八章   


天高く舞う花に添えて





先ほどまであんなにも上機嫌であったというのに、信長の顔は不機嫌極まりないものに
なっている。
その場にいた全員が酔いも冷める思いで主君の動向を見守った。
「お蘭は戦場になど行かせぬ。けして戦いの修羅に身を置かせることなどない!
不用意な言葉でお蘭の気を煽るでないぞ!」
「も、申し訳ございませぬ・・・」
光秀は頭を畳に擦り付けるように信長へ謝罪した。
それを見てもなお怒りの収まらない様子で、信長は足音大きく部屋を出ていこうと障子へ向かう。
「宴は終了じゃ!各々、眠りにつくがよい!」
そして光秀を一度だけ振り返ると、信長は低く呻くような声で呟いた。
「光秀。丹波、近江の一国は召し上げじゃ。そなたには出雲、石見二国を
切り取り次第与えることにする!」
「な、なんと・・・!」
明智の顔面から完全に血の気が引いた。
あまりにも過酷な領地換えに一同も皆ざわついてしまう。
「上様、それはあまりのなさりよう・・・!」
「黙れ、お蘭!・・・・・そうだ、光秀。そなたがお蘭の代わりにサルにつき、
毛利を攻め取って来い!」
さらに追い討ちをかけるように信長が告げると、ぴしゃんっと障子を荒く閉め
自室へと戻ってしまった。
毛利はあの秀吉ですら難航している武将だ。
明智は自分の領地を取られた上に今まで総大将の身分だったのを秀吉について
一武将として戦ってこいと命じられてしまったのだ。
「蘭丸殿、殿には私が・・・」
そう告げて徳川と柴田が信長の機嫌を取るために部屋を出ていく。
彼らを見送った後、蘭丸は明智の手当てをするため彼を立たせ仮宿へと移させた。
そして各々も仮宿の一室へと戻ったと思った矢先、堀だけは蘭丸の傍に控えていた。
「堀殿・・・?」
蘭丸が不思議な顔をして見やると、堀はついている、という表情で笑んでいる。
それだけなのになんとなく心強くなった蘭丸は、笑みを浮かべて頷きを返した。
「・・・・・明智殿、上様には私からもお願いいたしまする故、どうか気になさりませぬよう・・・」
言いながら冷たく冷やした手拭いを明智の頬に押し当てる。
すっかり肩を落として落ち込んでしまった明智は、その頬の冷たい感触に蘭丸の顔を見やった。
「蘭丸殿ならば・・・・上様も許してくださるやもしれん。・・・・いや、もともと蘭丸殿が戦場に
出たいと申しておれば、上様もお怒りにならなかっただろう」
「明智殿・・・・」
「どれほど蘭丸殿がかばおうてくれても、それは蘭丸殿への寵愛故に、じゃ。私への
気持ちではない。上様は・・・上様にとって光秀とはなんなのであろう」
蘭丸は明智の顔を覗き込むと眉根を寄せてそっと囁いた。
「明智殿は上様にとってなくてはならないお方。今は一時のお怒りでござりましょうが、
上様は明智殿を頼りにしておられまする!・・・此度のことは蘭丸の失態故、必ず
御領地を戻すよう説得いたしまする」
蘭丸の言葉に明智はすまなそうに表情を緩めたが、領地のことを思い出して
その顔つきを一変させた。
そして蘭丸の肩を押して顔から目をそむけるようにする。
「・・・・・いや、蘭丸殿。もしやそなたの策略では・・・」
「!?・・・な、なにを申されます!?」
「近江はもともとそなたの父の領地。そなたが欲しがっても仕方のないこと・・・・よもやと
思えばきりがないが、蘭丸殿が近江を欲しいと上様に申し上げれば言葉ひとつで
手に入ろうもの・・・・・・」
蘭丸は明智の言葉に愕然とした。
信長が明智の領地を取り上げたのは蘭丸が欲しいと願ったため、蘭丸に渡すためだというのだ。
「そのようなことはござりませぬ!・・・信じて、いただけませぬか!?」
蘭丸は焦ったように必死にかぶりをふって訴えたが、その様子は明智の目には
わざとらしく映ってしまう。
剣呑な様子の二人の間に堀が急いで割ってはいった。
「そこまでだ、二人とも。明智殿も、蘭丸殿がそのようなことをするかどうか、判別つきましょうぞ?」
「・・・・・堀殿はもともと蘭丸殿寄りの方。心眼が曇っていてもわからぬこともありまする」
明智は完全に疑いを持っていた。
そして堀にもその矛先は向いているようだ。
堀が蘭丸をかばうのは蘭丸の友人であるが故で、真実が見えていないせいだと。
「明智殿・・・・!」
さすがの堀でも言葉を失った。
「・・・・一晩、考えまする。どうか一人にしてくだされませ」
明智はそう告げて二人から視線を逸らした。
もう話し合いなどする気はまったくないらしい。
蘭丸はひどく傷ついた表情でその背を見つめていたが、堀に促されて室内を後にした。

「蘭丸殿、明智殿は今混乱しておるのだ」
堀が気遣ってかけてくれた言葉に、蘭丸は必死に虚勢をはって笑みを浮かべた。
「わかっておりまする。・・・・・されど、蘭丸が失態を見せなければこのようなことには
なりませなんだ。明智殿にはお詫びしても悔恨尽きませぬ・・・・」
居城へと中庭を歩きながら、堀と蘭丸はゆっくり安土城を見上げた。
静かな月明かりの中、佇む美しい城を。
「上様は私のことを思って戦には出さないと申されていらっしゃる。それもよく、
わかっているのだけれど」
蘭丸は形のよい唇をきゅっと噛み締めた。
「戦場にでない武将など飾りの人形と同じではござりませぬか!?」
蘭丸は強い視線を持って堀を振り返った。
長い黒髪がさらりと音を奏でながら月明かりの下踊るように跳ねる。
堀は言葉なく蘭丸のことを見つめた。
信長の気持ちも蘭丸の気持ちも、痛いほどにわかるからだ。
「・・・・・・・・・・花は戦いにはむかぬ。戦場に出れば心無いものに手折られようぞ」
堀が考えあぐねていると、蘭丸の背後から声がかけられた。
その相手に堀がぎょっとして目を丸くする。
蘭丸には声だけで相手がわかった様子だった。
唇を噛み締めたまま振り向こうとはしない。
「花は咲いてこそ美しいもの。枯れては意味を成さぬ」
蘭丸の背後に立つ相手、信長は後ろからそっと蘭丸の身体を抱きしめた。
それはとても優しく、温かな抱擁だった。
「踏みつけられるやもしれぬ場所に花を埋める人はおらぬだろう?わしはそなたを失うたら
生きてはいけぬ。そなたは・・・・お蘭はわしを、殺すつもりか?」
蘭丸は言葉に苦々しく目を伏せ、そして両手で自分を抱きしめる信長の腕を抱きしめ返す。
「・・・私に上様が殺せましょうか」
切なく掠れた声がそう漏らした。
蘭丸が愛しい信長を殺すことなどできない。
信長にとってもそれは同じことであった。
蘭丸は信長に抱きしめられたままどれほど自分が信長のことを好きであるか実感した。
愛しい腕を外すこともできない。
愛しい吐息を避けることもできない。
もしも自分が信長と同じ立場であったなら、同じことをしてしまうのではないかと不安がよぎった。
万見がこの世を去ったときの後悔。
堀が旅立つ度に引き止めてしまいそうになる想い。
すべては愛しむ心故なのだ。
「・・・・・上様のお傍にいまする。戦場には・・・出ませぬ」
蘭丸が呟いた言葉に、信長だけでなく堀もまた安堵の表情を見せた。
「すまぬな、お蘭。すぐに太平の世を作ってみせる。わしが戦などない世界にしてやるからな」
信長は蘭丸に誓うようにそう告げてその身体を抱き上げる。
そして堀に顔を向けると口端を笑ませた。
「お蘭はもらっていく。・・・・・それから堀よ、そなたもサルのもとへ行き毛利を
攻め落として来るのだ」
「はっ、ありがたき命でございまする。私は羽柴殿の才能に心底惚れています故、
その背についていくことを許されるのであらば本望でございまする」
堀は両手を真っ直ぐに伸ばしたまま、深く深く頭を下げる。
彼らを包み込む満月だけは変わらず安土を照らし続けていたが、やがてそれも暁に消えた。



一人部屋で視線を下げていた明智は投げつけられた盃の痛みに眉を顰めた。
手拭いはとうにぬるくなっていて、その効力を発揮してはいない。
それをぐっと片手で握り締めながら明智は溜息をついた。
「・・・・・・上様は、何をお考えなのだ・・・・」
どんな疑問を口にしても形のはっきりした答えなど浮かんではこない。
考えれば考えるほどに不安がつのっていった。
信長は天才的な軍略家で個性豊かな武将たちを纏めるにふさわしい指揮力を持った人物だ。
けれど短気なところでいつもみなの恐怖を煽っている。
それには民も含まれていて、六条で行われた有岡の人質処刑に逃げ出す
農民までいたほどだった。
「決断の・・・・・・・時であろうか」
伏せていた明智の視線が上へと上げられる。
その瞳にはひとつの道ともいえる決断が揺らめいていた。
「“主君殺し”の汚名を着せられても、上様を・・・・織田信長を討つべきなのか」
明智は己の両手に視線を落とし、そこに流れる熱い血脈を感じた。
いつも自分にだけは厳しい信長を恨んでいないと言えば嘘になる。
信長に褒められれば嬉しかったし、けなされれば動揺してなにも手につかなくなるほど哀しかった。
しかし、いつも自分にだけは厳しい信長を恨んでいないと言えば嘘になる。
光秀はただじっと、自分の掌を見つめたまま考え込んでいた。
答えは見つからない。
けれど決断しなければならない。
光秀の迷いは夜が明けてからもまだ長く続いた。


安土に流れる涼風は静かにそのときを待つ。
炎と共に、全てが消えるその瞬間を。


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