森蘭丸異聞
- RANMARU MORI -

第二十六章   


天高く舞う花に添えて





「・・・・・そなたの母御前を騙そうとしているわしを、お蘭は許さぬか?」
「上様?」
蘭丸の表情が訝しげなものへと変化する。
信長の言葉がよく理解できないのだ。
「本願寺との和平調約・・・わしは毛頭するつもりもない。わしを苦しめた一向一揆を
発起したところじゃ。そうやすやすと許せるものではない」
信長は蘭丸の髪を梳き、美貌の面を見下ろしながらすまなそうに眉根を寄せた。
「そなたの母御前には悪いが、明日の誓約文には偽の朱印を施す。これならば
本願寺を攻めても誓約違反にはならぬ。調停が済み気を抜いた本願寺を・・・・
わしは総攻撃するつもりじゃ。しかし・・・わしはそなたに嫌われることを一番に
恐れておる。嫌われとうないのじゃ」
「上様・・・・・」
蘭丸は苦悩する信長の頬へとそっと指先を伸ばした。
いまだ若く雄雄しい信長の顔は蘭丸にとって憧れのものだ。
その頬を白い掌でゆっくりと包みこんで、蘭丸は桜色の唇を笑みに変えた。
「・・・・・蘭丸も、それがよろしいかと思いまする。上様のお心は蘭丸の心。私の母で
あろうとなかろうと本願寺の使いとして現れた以上、そのおつもりでご対応くだされませ」
蘭丸はわざわざ自分に言いに来てくれた信長に申し訳なくも嬉しい気分になった。
いつでも信長は蘭丸のことを気遣ってくれる。
そして今回もまた蘭丸にとっては辛い選択となる問題を事前に知らせてくれた。
しばらく廊下で蘭丸が出てくるのを待っていたのだろう。
信長の頬はひんやりと冷えていた。
その感触もまた蘭丸の胸をいっぱいにさせる要因になっている。
「上様がお歩きになる道の小石を取り除くのが私の役目。けして道を造るために
いるのではござりませぬ」
「お蘭・・・・」
信長は艶やかに微笑む蘭丸の顔を見据え、そして微かに笑みを浮かべた。
そして蘭丸もまた信長の顔を見つめたまま瞬きすらせずに微笑んでいる。
「うむ・・・・そなたの気持ち、しかと受け取ったぞ。やはりそなたはわしの大事な蘭の花よ」
信長の腕が蘭丸の背を押すと、二人の唇は自然に吸い寄せ合った。



翌日の昼下がり、蘭丸、堀、妙向尼、そして坊丸、力丸は信長の前に揃えられた。
本願寺との和平調約を行うためだ。
信長は誓約文に印を押すとそれを妙向尼へと差し出した。
「ではこれを本願寺へ届けてくれ」
「・・・・・・・・」
蘭丸の横に座した妙向尼は、そう信長に言われても動こうとはしない。
一同は不思議に思い妙向尼を振り返った。
「それはいただけませぬ。・・・・・織田様、どうか正式な誓約文をお書きくだされませ」
蘭丸と信長、そして事を知る堀の三人は妙向尼の言葉にぎょっとした。
どうやら妙向尼は信長の企みを知っている様なのだ。
「どういうことでございまするか・・・!?母上!」
「・・・・織田様は私を謀り、本願寺を滅ぼそうとなさっておられまする。そのご朱印は
偽物であれば、正しき朱印を持って誓約文を渡していただきとうございまする」
何も知らぬ坊丸と力丸の声に妙向尼が話をかいつまんで説明した。
そして今一度信長の顔を見やった妙向尼は深く頭を下げて信長に懇願する。
「申し訳ありませぬが、蘭との会話を耳にしてしまいました。けして蘭が私に漏らしたわけでは
ございませぬ。・・・されど、どうしても私には納得できぬ事故、どうか私の身を持ってして
願い届けていただけませぬか?」
妙向尼は本願寺との約束を守るため、身を挺しても事を成す覚悟であった。
信長は弱ったように肩を落としたがひたすらに首を横へと振り続ける。
「ならぬ。わしはこれしか出さぬと決めたのじゃ。もとはといえば本願寺の一向一揆がわしを
苦しめたのだ。わしのほうが譲歩する理由など幾ばかりも存在せぬわ!」
「・・・・・そうでございまするか」
妙向尼は残念そうな表情で再び顔を上に上げた。
そして信長の顔をひと睨みすると袖内から刃渡り一寸の小刀を取り出してみせる。
「!・・・母上!」
妙向尼が自害するのではないかと思った蘭丸が、それを制しようとした瞬間。
蘭丸の身体は妙向尼とは反対方向に反転させられ、その肩を腕で捕まれたまま刀の
先をつきつけられていた。
実の母に捕らえられ喉仏に刃先をあてられてしまった蘭丸は言葉も出せずに呆然としている。
「蘭丸殿・・・!」
とっさに堀が片足を上げた途端、妙向尼は静かに重い口調でそれを止めた。
「動いてはなりませぬ!そのままお座りくだされませ」
そして見せ付けるように蘭丸の首へとあてた刀をちらつかせる。
妙向尼の後ろには坊丸、力丸が控えていたが突然のことに何も出来ずにいた。
「・・・・・っ、く」
堀が唇を噛みながら再び座りなおすと、妙向尼は信長の苦々しい顔を見ながら言葉を告げる。
「私の願いが聞き届けられぬのであらば、この蘭丸、そして坊丸と力丸・・・三人の子供も
此世にありて仏敵となさんよりも、生害いたさせ、禅尼が浄土参りぬ時の供に召し連れる
覚悟にございまする・・・!」
「な、なんと・・・!」
この言葉に信長と堀の顔面から血の気が失せた。
本物の誓約文を書かなければ妙向尼は蘭丸、坊丸、力丸の三人を道ずれに死ぬというのだ。
蘭丸はこの母の覚悟にゆっくりと目を伏せた。
信長のために母の願いを聞くことはできぬが、母を一人で逝かせることも蘭丸にはできないのだ。
ならば共に冥府の道を歩こうと、蘭丸は心密かに思った。
坊丸、力丸もどうやらそれは同じらしく、正座を正してうつむく。
「・・・ううぬ・・・!」
信長が低く唸り声を上げた。
それをきっかけに蘭丸は母の手にそっと自分の手を添える。
「・・・母上、どうかご一緒に連れていってくだされませ。私は上様の重荷にはなりとう
ございませぬ。ここで新たな誓約文を書かせるわけにはいかぬのでございまする・・・・されど、
母上お一人を逝かせるつもりもありませぬ故、蘭丸を最初にお突きくだされませ」
蘭丸に続くように後ろの二人も声を荒げた。
「兄上・・・!坊も、同じ気持ちでございまする!上様も、母上も、裏切ることができませぬ!」
「力も同じく・・・私こそ初めにお突きくだされ!」
この三人の気持ちに、母である妙向尼は瞳を潤ませた。
出来ることならば愛する息子を死なせたくなどないのだ。
「上様の天下統一への道はあと少しでございまする・・・どうか、勝手をお許しくだされませ」
苦笑を浮かべた蘭丸は先に逝くことを信長に請う。
しかし信長はぶるぶると大きく震える拳を袖置に叩きつけ、声を潜めながら堀に指示を出した。
「・・・堀!新しい紙を寄越せ」
「・・・!上様!」
蘭丸が目を見開いて信長の顔を見る。
信長はそんな蘭丸に首を振って見せると、差し出された新しい紙に誓約文を書き始めた。
そして本物の朱印を押すと、妙向尼の前へと投げ渡す。
「・・・・・それを持っていくがよい」
「上様!なりませぬ、上様の天下統一が・・・!」
「わかっておる!だが、和議でも統一に相違ない」
信長はそう言い切ると弱った様子で額を片手で覆った。
そして呟くように言葉を漏らす。
「・・・・・わからぬか?わしはお蘭、そなたを失うのが怖いのじゃ」
信長の言葉に蘭丸は苦しげに眉根を寄せた。
そして妙向尼が刀を引いて誓約文を手に取ると、信長の前に出て膝をついて頭を下げる。
「申し訳・・・ございませぬ・・・!」
「・・・・よい、そなたの母を想う気持ちもわかる故。・・・・いや、そんなそなただからこそ、
わしは失いたくないと思うのじゃ。この件はもう済んだことよ。変わらずお蘭が仕えて
くれるのならば、問題ない」
そして信長は妙向尼の後ろにいる二人にも視線を投げた。
「お坊、お力、そなたらもじゃ」
「・・・はっ!」
二人はうっすらと涙を浮かべて両手を床につき、そこへ額をこすりつけるようにお辞儀をした。
そしてまだ頭を上げない蘭丸に堀が近寄り、その背にそっと手を添える。
「蘭丸殿、今すべきことは詫びではなく礼だ。上様には、礼をすればよい」
「堀殿・・・」
蘭丸はまたも信長や堀の気持ちに助けられた思いで一杯だった。
「ありがとうございまする、上様・・・ありがとうございまする」
蘭丸は何度も礼の言葉を口にした。
そして妙向尼もまた、信長に向かって礼をする。
「ありがとうございました、織田様・・・・そして、蘭よ。悪いことをしてしまいましたね・・・」
妙向尼は今度は何も持たぬ両手で蘭丸の身体をそっと抱きしめた。
そこには詫びの気持ちがありありと込められている。
「母上・・・!いいえ、ご無事であらばよいのです」
蘭丸もまた、健在な母を両手で抱きしめ返しその温もりに目を伏せた。
母と不仲になり、実の弟ともども敵に回すこととなった信長にとって、森家の
親子愛は眩しくすら思える。
そして堀もまた、抱きしめることができる相手がいることを羨ましくも温かな眼差しで
見つめていた。


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