森蘭丸異聞
- RANMARU MORI -

第九章   


天高く舞う花に添えて





それからの蘭丸は目の回るような忙しさに翻弄されていた。
万見仙千代の弔いが終わるまでその責任の一切を任されていたからだ。
立ち直った菊千代も手助けをしてくれていたが、それでもしなければならないことが
減ることはなかった。
万見が亡くなった数日後、ようやく終わりのめどがついてきた。
頬の腫れが引いたのもこの頃のことだ。
そんな朝、菊千代は葛湯を持って蘭丸の部屋へと向かっていた。
顔色のあまりよくない蘭丸を気遣って信長が菊千代に薬を持たせたのだ。
蘭丸のいる小姓頭の部屋に着くと、菊千代は障子越しに声をかける。
「蘭丸殿、入ってよろしいか?」
しかし、もうとっくに起きて朝の一仕事でも終えているだろう蘭丸からは返事がない。
不審に思った菊千代は障子を少しだけ開けて中を垣間見たが、部屋の中に
蘭丸の姿は見当たらなかった。
「入りますぞ、蘭丸殿」
一声かけ、菊千代は主のいない部屋の障子を開いた。
すると少ししか開けていなかったときには見えなかった蘭丸の姿が視界に飛び込んでくる。
「・・・・!」
菊千代はうっかりと葛湯を落としてしまいそうになった。
蘭丸が部屋の隅でうつぶせに倒れていたからだ。
「蘭丸殿!」
慌てて菊千代がかけより、葛湯の盆を畳の上へ置いて蘭丸を抱き起こす。
顔色は青く吐く息も弱いが生きてはいる。
それだけ確認していると菊千代の声を聞いた小姓たちが廊下に出てきた。
「いかがなされました!?菊千代殿!」
古参の市若がただならぬ様子に声を荒げる。
菊千代は市若に布団を敷くよう指示を投げると蘭丸を抱き起こした。
「今来てみたら蘭丸殿が倒れていた。外傷はないようだが・・・」
「誰ぞの刺客が!?」
「いや、そうとも見えぬ。・・・・・顔色が悪い。冷水を汲んで来い!」
今度は彦作が飛び出した。
十二月という季節柄、氷や冷水は直ぐに手に入るだろう。
敷かれた布団の上に蘭丸の身体を寝かせると菊千代は部屋を一瞥した。
毒などが盛られていたら早急の手当てが必要だ。
だが、蘭丸の部屋には彼が口にするような湯飲みや皿は見当たらなかった。
「もしや・・・・」
ふいに市若が口を開いた。
「何だ?」
「蘭丸殿は栄養が足らずにお倒れになられたのやもしれませぬ」
「・・・・どういうことだ?」
怪訝そうな表情で菊千代は市若の顔を見た。
「仙千代殿が討ち死になされたあの日から、蘭丸殿は食物を口にしておられる
様子がなかったのです。夜もほとんど寝る様子を見せず、ご注進しても
大丈夫だとお笑いになられて・・・」
菊千代は目を見開いて蘭丸を見据えた。
乾いた蘭丸の唇はそれが事実であることを裏付けている。
「・・・・・まさか、蘭丸殿・・・仙千代がいなくなった心労で・・・?」
菊千代は自分の眉間を指先で押さえ込んだ。
蘭丸は強いわけではない。
強い振りをしているだけだ。
そう蘭丸の兄の長可が言っていた通り、蘭丸はその悲しみを胸のうちにひた隠し強く
振舞っていたのではないだろうか。
本当は飯も喉を通らないほどに参っているというのに、万見のためだけに
自分を奮い立たせた。
「・・・・・・蘭丸殿・・・・・」
菊千代は目頭が熱くなる思いだった。
自分の悲しみにばかり目を向けていて、蘭丸の苦しみに気づいてあげることが
できなかった。確かに昔から信長の無体にも唇を噛んで空を見上げ、涙することを
我慢しているような子だった。兄と慕い尊敬していた万見の死を平気で乗り越えるような
情の薄い人間でもなかった。
「すまない・・・」
菊千代は蘭丸が寝るその傍らでぐっと頭を下げた。
自分を叱りつけ、励ましてくれたあの時の蘭丸に感じていた違和感はこれだったのだろう。
嘆かない蘭丸の内なる心労をどうしてあの場で察してやることができなかったのか。
悔しがる菊千代の指先を、ふと温もりが覆った。
「ら、蘭丸殿。お気がつかれたか」
温もりの主は蘭丸の左手だった。
蘭丸は青ざめた顔色のまま心配そうに菊千代のことを見上げている。
「これは・・・・?それに菊千代殿、どうなされました」
「それはそなたのほうだろう、蘭丸殿。・・・・・飯を食べていないそうだな」
言われてようやく蘭丸は自分が倒れたことに気付いた様子だった。
ふらふらのまま激務をこなし、無理がたたって身体に異常をきたしたというのに、
こんなときでも蘭丸は菊千代のことを心配している。
言葉につまっている蘭丸の額を菊千代の掌がそっと撫でた。
「飯が喉を通らぬか?」
「・・・・いいえ、食べる気が起きぬだけでございまする」
「では食べることは出来るのだな。今日は一緒に朝餉を取ろう・・・彦作、
ここにもってきてくれるか?」
冷水を持って戻ってきた彦作にそう声をかけると、彼は市若とともに膳を取りに出て行く。
蘭丸はゆっくりと身体を起こし、解れかけた髪結いの紐を引っ張った。
「・・・・・あまり、食が進みませぬ」
「では蘭丸殿が食べなければ私も食べることをやめよう。これから先、ずっとだ」
解かれた髪がはらりと肩に落ちた。
蘭丸は困ったような視線で菊千代のことを見つめている。
ああ言ってしまえば蘭丸は飯を食べるしかない。
彼の性格を知って告げた菊千代の言葉だ。
「仙千代を殺したくはないのだろう?自刃しないとて、飯を食わねば死んでしまう。
仙千代の想いを断ち切るだけでなく殿もたいそうお嘆きになるだろう。
・・・・・それでもいいのか?」
菊千代の言葉に蘭丸は首を左右へと振った。
「よく、ありませぬ」
その答えに満足したように菊千代が微笑むと市若たちが膳を抱えて戻ってきた。
そして支度が済むと蘭丸にお大事になさってくださりませ、と声をかけ
小姓部屋へ戻って行った。
二人は用意された膳を間に向かい合って食事を始める。
蘭丸がゆっくりと、だがしっかり飯粒を口に運ぶ様子に菊千代は顔に出さず安堵した。
「・・・・・・・蘭丸殿、私は小姓をやめようと思うている」
「・・・・!」
がちゃんっと膳が揺れる音が響く。
動揺した蘭丸が膝を当てたのだ。
「元服して今度は武将として殿にお仕えしようと考えている。私は年も一番上だ。
妥当な頃だろう」
「・・・・・不安でございまする。仙千代殿がおられなくなって、菊千代殿も城から
出ていかれては・・・」
「大丈夫だ。もう、味方はたくさんいる。先ほどの市若や彦作も蘭丸殿を尊敬し、
ついていく覚悟だ」
菊千代は蘭丸の艶やかな髪を指先でそっと梳いた。
絹のような手触りが目も感覚も楽しませてくれる。
「先日殿を諌めた蘭丸殿のことを、皆信用しているのだよ。いや、頼りにしていると
いったほうが正しいやもしれぬ。蘭丸殿は小姓たちの誇りだと。彼らは
胸を張って言っていた」
「・・・・・・・」
蘭丸は俯いた。
声に出さずとも頬に落ちる涙がすべてを物語っている。
今までの苦労が報われた思いだった。
「蘭丸は、もう泣きませぬ・・・・・・これで最後でございまする。だから、菊千代殿も
安心して元服なされませ」
「・・・・ありがとう、蘭丸殿」
そして蘭丸は今までの礼を込めて、両手をついて深々と頭を下げた。
その動作で菊千代の手に触れていた髪がするりと指先から逃げてゆく。
菊千代は静かに瞼を閉じその感触に酔いしれた。
「ああ、・・・綺麗な黒髪だな。まるで、仙千代に触れているようだ・・・」
ひと時の逢瀬は幻のごとく掻き消え、菊千代は再び瞼を押し開く。
そして蘭丸もまた顔を上げ菊千代の双眸と視線を交わした。
万見仙千代の志を継いだ二人だけの、言葉無き会話だった。


それからさらに数日たって、信長は事態の膠着を見極めてから安土へと帰ることとなる。
十二月二十五日、万見の死から二週間余もたった雪の日だった。


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