森蘭丸異聞
- RANMARU MORI -

第八章   


天高く舞う花に添えて





「菊千代殿!!」
静寂を破るかのように凛とした声が響いた。
伏せていた瞼が押し上げられ、脇差を持つ自分の手を止めた蘭丸の姿が目に入ってくる。
「何をしておりまするか!・・・・ああ、このように傷口が開いて・・・・すぐに薬を塗りまする」
力のあまり入らない手から脇差を取られ、呆然としたまま菊千代は首を傾げた。
「・・・蘭丸・・・殿?なぜ、ここに・・・」
蘭丸は安土での待機を命じられていたはず。
ここにいるはずのない姿に菊千代は何度も瞬きを繰り返した。
「兄上に仙千代殿の事を聞き・・・・急ぎ、駆けつけました」
蘭丸はそう告げると薬箱が来るまでの間中ずっと、菊千代の身体を抱きしめた。
長可は信忠に使いを走らせた後すぐに馬で安土へと引き返し蘭丸に訃報を知らせたのだ。
衝撃に打ち震える蘭丸を長可が諭し、半ば無理やりに本陣まで引っ張ってきた。
そして菊千代を探し裏庭で見つけたのだ。
「・・・・・・蘭丸殿・・・仙千代が、消えてしまった。今朝まで腕にいたのに、
朱色が目の前に広がって・・・」
蘭丸の腕に抱かれたまま、菊千代は己のこめかみを両手で押さえた。
「死んだ・・・?死ぬというのか?私を残して・・・殿を、蘭丸殿を残して・・・」
初めて、言葉にした。
これまではさして感情など込めずに使っていた単語だというのに。
今はなぜ、こんなにも心揺さぶり切ない響きになったのだろう。
死という言葉を声にした瞬間、菊千代が絶叫した。
「あああっーーーあああああ!!!」
「しっかりなさいませ!」
ふいに蘭丸がぐいっと菊千代の胸倉を掴んで自分の顔へと菊千代の顔を引き寄せた。
突然のことに菊千代も隣で見守っていた長可も目を見開く。
「今おつらいのは菊千代殿ばかりではござりませぬ!上様も、悲しみにくれて
おりまする!小姓ならば・・・・・上様の臣下ならば、今こそ上様を支えなければ
ならぬはずではございませぬか!?」
ぴしゃりと。
蘭丸の凛とした声が裏庭に響き渡った。
「ら・・・蘭丸、殿・・・」
菊千代の腫れた頬を見つめながら、蘭丸はきゅっと形のよい下唇を噛み締めた。
「・・・・・・仙千代殿とて、生きておられたらそう申されたと思われまする」
ゆっくりと、蘭丸は菊千代の袂を離した。
そのせいで菊千代はその場にしりもちをつくような格好でへたりこんでしまう。
「・・・・・上様のところへ参りまする。兄上はどうか菊千代殿のお手当てを」
蘭丸は厳しい顔つきでそう言い放つと、踵を返して天守閣へと歩き出した。
そんな蘭丸を見上げるような視線で菊千代の眼が捕らえる。
彼の、蘭丸の凛とした行動がどこか心に引っかかりを感じさせるのだ。
「・・・・蘭丸殿・・・そなたは、哀しくないのか・・・?」
その菊千代の問いに蘭丸は背を向けたまま答えを返す。
「哀しくない事はござりませぬ。されど、自分の中には仙千代殿の想いが
残っておりまする。・・・・・その想いまで、殺しとうございませぬ。自刃するということは、
内なる仙千代殿も殺します故」
蘭丸の足は一度躊躇するようにその場で足踏みしたが、再び歩き出しその場を
去っていった。残された菊千代はまるで雷に打たれたかのように指先を、そして唇を
震わせしゃがみこんでいる。
「・・・・・・想いが、残っている・・・・?」
打たれたせいで再び出血しはじめていた頬を長可に手当てされながら、菊千代は
万見のことを思い返していた。
”私やそなた・・・蘭丸殿も、ここで繋ごうておる。それが私の力になる・・・そうだろう?菊千代”
そう、覚えている。
確かな感触をこの胸にくれたあの時のことを。
あの優しい声で囁いてくれたあの言葉を。
息をすることすら忘れてしまったかのように固まっていた菊千代は、風の吹き抜ける
感触で意識を戻した。
気付くと頬を手当てする長可が間近にいる。
「・・・・・長可殿」
今までなすがままにされていた菊千代が顔を挙げて長可を見た。
「何ですかな?菊千代殿」
「・・・・・なぜ、蘭丸殿はあのように強いのだ?・・・・いや、強くなれたのだ?」
菊千代には不思議でならなかった。
つい先日までは自分たちの後ばかりを追っていたように感じたのに。
かけられた言葉に長可はくすりと苦笑をもらした。
「あの子は強くなどない。悲しみをひた隠しにしているだけに過ぎませぬ」
「なぜでございまするか?」
「仙千代殿がお強かったからですよ。あの子は、仙千代殿のお気持ちを
そのまま受け継ごうとしている」
長可は心配そうに蘭丸の登っていった天守閣を見上げた。
信長の悲しみを知れば知るほど、蘭丸のやろうとしていることが無茶だとわかったからだ。
しかし長可とて蘭丸を止めるわけにはいかなかった。
万見が亡くなった今、勘気に触れた信長を止められるのはきっと蘭丸しかいないだろうから。
そう、一縷の望みを託して蘭丸の背を見送ったのだ。



蘭丸は天守閣までやってくると障子の前で膝をついた。
「上様、森蘭丸にございまする」
「・・・・?お蘭とな?」
他の小姓には誰も寄せ付けるなと言いつけ、天守閣に篭ってしまっていた
信長から返事が返ってきた。
信長もここにはいないはずの蘭丸の出現に戸惑ったのだ。
「はい、お蘭でございまする。上様のお顔を拝謁しとう存じたく・・・」
言葉は途中で遮られ、蘭丸の目の前に信長の姿が現れた。
二人を隔てていた障子が信長自らの手で開かれたのだ。
「おお、お蘭・・・許す、入れ!」
沈んでいた信長の顔が少しだけ明るくなり、部屋の中へと手招きする。
しかし蘭丸はその場に正座したまま両手を膝に乗せ信長へと進言した。
「・・・・・上様、仙千代殿をお離しくださりませ」
「・・・・!な、なんじゃと・・・?お蘭、そなた誰に向こうてそのようなことを
口にしておるのじゃ!」
信長の顔がみるみるうちに赤く染まってゆく。
こめかみには青筋が立ち、今にも怒鳴りそうなほどの勢いだった。
信長にとって蘭丸のこの言葉は裏切りにも等しいものに感じられた。
「わしはまだ仙千代から離れとうない!」
「では上様!万見殿をそのような格好のまま弔いもせずに捨て置くのでございまするか!」
瞬間、ばしんっと平手の音が天守閣に響き渡った。
その音は階下の小姓や臣下にも聞こえ、皆は一様にざわめき始める。
蘭丸は歯を食いしばったが打たれた衝撃は彼の桜色の唇を切り裂き、赤い糸を滴らせた。
しかし蘭丸はくじけぬ視線で再び信長のことを見据える。
信長は再び蘭丸に向かって片手を振り上げた。
「まだ打たれ足りないか!」
「足りませぬ!私めをお打ちなされて上様のご勘気がお沈みくださるのであれば易いこと。
上様、どうか・・・どうか仙千代殿を弔わせてくださりませ」
蘭丸は必死に懇願した。
両手を床につき正座したまま額を地へと擦り当てる。
そんな蘭丸の様子に信長は再び振り上げた手をぐっと握り締めた。
「・・・・誰か!誰ぞおるか!」
信長の声が階下に放たれる。
慌てて数人の小姓が階段から姿を現した。
「・・・・・・・仙千代を弔ってやるがよい。丁重に、丁重にだ!」
それだけ言うと信長は顔を真っ赤にしたまま再び室内へと戻ってしまう。
命を受けた小姓たちは慌てふためきながら万見の遺体を運び出し階段の下へと消えた。
蘭丸は一息だけつくとそれを見送り、障子を閉めてから信長が寝転がるその傍へと進む。
「・・・・・なぜこちらへ来る」
「・・・・・上様が入ることを許すとおっしゃられました故」
背を向けて不貞腐れたように寝転んだ信長と、それを静かに見守る蘭丸。
根競べのようなその空間を破ったのはやはり信長だった。
信長はふいに背を起こすとくるりと身体を反転させ胡坐をかいたまま蘭丸の顔を見た。
「・・・・・・・・赤くなってしもうたな。痛かったであろう」
そっと指を伸ばして蘭丸の頬に触れた途端、蘭丸の整った顔が苦痛に歪む。
その様子に信長は手を一度引っ込めたが今度は蘭丸がその手をとって自分の頬へと導いた。
「上様のお嘆きは尤もの事。蘭丸は痛みなど感じませぬ」
明らかな嘘も今の信長にとってはとても愛しく感じられた。
腫れてしまった頬は少し熱を持ち信長の指先を暖めてゆく。
「・・・闇の中に放り込まれたようじゃった」
信長がゆっくりと口を開いた。
自然と蘭丸の視線は凛々しい信長の顔へと向けられる。
「仙千代の戦死報告を受けた折、わしは目の前が真っ暗になってしもうた」
信長の言葉に蘭丸は唇をきゅっと結んだ。
蘭丸もまた同じような気持ちになったことを思い出したからだ。
「語りかけても、語りかけても、あやつは返事をしようとしない。この信長が語っておるというのに」
信長は親指をずらして結ばれた蘭丸の唇にそっと触れさせた。
もう乾いた血がこびり付いているのがなお痛々しく、信長の目は苦しそうに眇められた。
「・・・・・・お蘭、そなたが居てくれなんだら、わしは仙千代を辱めていたやもしれん」
そして頬から首へ回した手が蘭丸の身体をそっと信長のほうへと引き寄せた。
背中には信長のもう一方の腕が添えられている。
静かに燃える炭火のような抱擁だった。
いつもの激情のままに抱きしめられるそれとは違う、緩やかに愛しげに込められた腕の力。
「・・・・そのようなお言葉、蘭丸にはもったいのうございます」
常とは違う温もりに蘭丸は張り詰めていた気を解き一時の安らぎを感じることができた。
そして信長もまた、蘭丸の体温に安らぎを感じている。
誰も入ることの出来ない空間がそこには確かに存在した。
二人だけの、静かな時が。


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