森蘭丸異聞
- RANMARU MORI -

第七章   


天高く舞う花に添えて





小姓の控える間で甲冑を仕度する万見の肩を菊千代がぐっと掴んで引き寄せた。
「仙千代!」
その声に万見はするどい眼光を向ける。
けして誰にも領域を侵させないような、強い意志を持った瞳。
菊千代は思わず言葉を失った。
「・・・菊千代、止めても無駄だぞ。私は一度決めたことを覆すような男ではない」
「・・・・・・・知っている」
菊千代はぐっと眉根を寄せたまま万見を見つめそう返す。
誰よりも万見のことは知っているつもりだ。
だからこそ、止めても無駄なことはわかっていた。
「止めに来たわけではない・・・・・ただ・・・、いや・・・何をしたいんだ、私は・・・・」
菊千代は混乱している様子で自分のこめかみを左手で押さえつけた。
気がついたら万見を追っていた。
何を言いたかったわけでも、何をしたかったわけでもなく。
ただ衝動に駆られるままに万見の後を追っていたのだ。
理性的な菊千代にとってこんなことは初めてだった。
「・・・・・菊千代。心配してくれたのだな。・・・・・ありがとう」
万見は廊下を通る人影が少しの間切れた隙に菊千代の首へと両腕を回して、
優しく包み込むように抱いた。
「私は大丈夫だ。心配しすぎなのだ、周りは。皆が一度は通る道だと言うのに・・・・・」
言いながら万見は菊千代の首から肩、鎖骨、胸元へと指を滑らせてゆく。
「私やそなた・・・蘭丸殿も、ここで繋ごうておる。それが私の力になる・・・そうだろう?菊千代」
万見の指先が、胸元をそっと覆った。
白く滑らかなこの手がこれから人を殺しに行く。
そう思うと菊千代は泣きたいほどの衝動に駆られ、両腕で折れるほどに万見を抱き寄せた。
「・・・・・・ッ!」
激しくきつい抱擁。
菊千代の雄臭い香りがなぜか万見の心を落ち着かせる。
「私が・・・傍にいる。片時も離れずともに戦う。約束だ」
「・・・・ああ」
誓い合う二人の影が緩く重なると、城内にいよいよ合戦の合図が鳴り響いた。


時は十二月八日。
風の強い寒さの中、有岡攻めの法螺笛が響く。
先陣を切ることになった万見と菊千代、そして蘭丸の兄長可は高い城の壁を目前にしていた。
「いざ、突撃を!!」
万見の声が戦場に響いた。
それを皮切りに幾多の声が重なり、埃を散らしながら壁にかけたはしごへと上っていく。
手に刀を持った菊千代、長可もはしごを上り敵城へと攻め込んだ。
有岡の城は壁を壊すことができず乗り越えて侵入するしかない作りになっている。
菊千代が壁上にたどり着くとぐい、と槍の先刀が突き出してきた。
「・・・・ぬう!」
菊千代はそれを皮一枚で避けると刀の腰でなぎ払い目下の男の頭上へ刃を振り下ろした。
がつ、っと額が割れる音がして一瞬遅れに返り血がびゅっと噴出してくる。
さらにそれを避けながら菊千代は腰の高さまで上りきり城内にいる
敵の様子をその目に捉えた。
「やああーー!!」
隣から万見の威勢のいい声が響いてくる。
万見もまた自ら突撃し、刀で敵の弓をなぎ払いながらはしごを上っていたのだ。
刀が互いを傷つけぬ程度の位置で戦う愛する者に、菊千代は勇気をわけあたえて
もらっているようで片目を細める。
瞬間、ぐずっと肉の避ける音が響いた。
「・・・っ、ぐ・・・・ぅ」
苦悶の声に菊千代が振り返ろうとするが、それよりも先に眼下の男が叫んだ。
「や・・・やったぞ!万見だ!万見仙千代を落としたぞ!」
「・・・・・!!」
菊千代は言葉にならないほどの眩暈を感じた。
ようやく視界に捕らえることができた万見の姿は、槍の先で喉を貫かれ肉を引き裂かれていた。
刀を持つ手が痙攣し鏃が引き抜かれた喉からは大量の血液が飛び出している。
ゆっくりと地上に落ちていく体はまるで操り糸が切れたように頼りなく空を切った。
「・・・・・・あ、・・あぁ・・・・・あああああッ・・・・!!!!」
菊千代の絶叫があたりに木霊する。
万見の目は見開かれ全身の痙攣と連結したように眼振を起こしていた。
手を伸ばせば届く距離だったはずなのに、どんどんと離されてゆく。
菊千代の指先が万見を求めるように空中をさまよったが、返ってきたのは
まだ生ぬるい彼の血液だけだった。
「元助に続け!今度は堀を落とすんだ!」
そう声が聞こえてくるとと菊千代の頬が槍先で引き裂かれた。
不思議と痛みは感じない。
そして菊千代は理性を失った目で元助と呼ばれた武将の顔を睨み付けた。
「あああっ・・・・・ァ、あああああっーーー!」
声が枯れるほどに大きな声で菊千代は刀を振るった。
万見の血流が滴る指先でしっかりときつく刀を握って、元助の顔面を切りつける。
「・・・ぅ、ぎゃああーー!!」
痛さに喘ぐ声が斬られた男の唇から漏れる。
しかし菊千代はそれで許しはしなかった。
自分に繰り出された槍を片手で奪うとその矛先を元助に向け殺さない一歩手前の箇所に
何度も何度も突き立てる。
そのあまりの激しさに菊千代の額には汗が滲んでいた。
つい先刻まで万見と触れ合っていたのに。
この胸をしなやかな指先が撫でてくれたのに。
自分の顎先には彼の息遣いがまだ残っている。
その全ての感触の名残が菊千代をただ殺すための行為につき立てていた。
「・・・・!万見殿!」
城前下で長可が叫んだ。
部下から事情を聞いた長可が様子を見にはしごから降りてやってきたのだ。
無心で槍を振るう菊千代を見上げると、長可は傍にいた武将たちに声を荒げた。
「万見殿をすぐに介護へ!お前はこのことを信忠殿に伝えるのだ。上様にもな!」
「はっ!」
武将は駆け足で報告へ向かった。
それを見送ると長可は菊千代を保護するためにはしごを上り始めた。



戦火はすぐに消え去った。
万見仙千代の戦死に全員が戦意を失い、総大将の信忠も一時退却命令を発令した。
有岡城はこの戦いの勝利に歓声をあげ祝杯を掲げている。
反対に織田軍本陣となった明智の城では荒れ狂った信長の手によって
数人が命を失っていた。
「・・・そなたがついていながら・・・!」
ばしんっと大きく平手打ちをする音が城内に響き渡った。
片手に持った刀を大きくわなわなと震わせ、信長は菊千代の頬を打ったのだ。
そして返す手でもう一度。
今度は拳にして一度、さらに返しで一度。
何度も何度もそのように信長は菊千代の頬を打ち続けた。
「っ・・・・ぐ・・・・」
とうとう菊千代は脳震盪を起こしその場に崩れ落ちてしまう。
それを見てもまだ怒りが収まらない信長は手の刀で障子を一刀両断した。
ばさりっと音がしてその向こう側にいた家臣たちが慌てて逃げ惑う姿が視界に入る。
「上様、どうか御気を沈めくだされ・・・!」
「うるさい!わしにかまうな!仙千代と二人だけにさせよ!!」
見かねて止めに入る小姓の声も聞かずに信長はそのまま天守閣へと引きこもってしまった。
天守閣には信長の命によって万見の身体が運び込まれていた。
下の騒ぎを耳にしながらも、信長は彼の前へと膝を下ろしゆっくりと顔を見つめた。
万見の亡骸はすぐに清められ、生前の美しさを保っている。
斬られた喉には白い包帯が。
ほぼ即死だったと救護にあたった医者が告げていた。
「・・・・・仙千代よ。もうしばしわしの面倒を見る、と言うておったではないか・・・・・
そなたが約束を違えたことなどあったか?・・・・・目を覚ませ。しばらくわがままは控える故・・・」
信長は遺体の前へ座り込み、説得するように囁いた。
和紙のように白くなってしまった万見の顔はそんな信長の願いとは裏腹にぴくりともしない。
「・・・・・わしが、性急に事を運ぼうとしたから・・・・そなたは逝ってしまったのか?」
後悔の色を滲ませた声が信長の口から零れ落ちた。
「わしが総攻撃を命じなければ、そなたは戦場には出なんだか?」
信長の顔はひどく狼狽していた。
声に張りはなくいつもの信長のような豪胆さをなくしている。
一番将来を楽しみにしていた近習を機を見誤ったことで死なせてしまったのだ。
後悔してもしきれぬほどに信長は自分を責めていた。

そしてもう一人、自分を責める男がいた。
目を覚ました菊千代だ。
小姓仲間が信長に打たれ腫れた頬を水で濡らした手拭いで冷やしてくれた。
その甲斐あってかすぐに菊千代は目を覚ましたのだ。
正直、信長に手打ちにされなかったのは運が良かったとしか言いようがない。
いや、もしかしたら自分に懐いている蘭丸のことを思って斬らなかったのかもしれない。
なんにせよ、菊千代は生きながらえてしまった。
「・・・・・・・」
菊千代はふらつく足で立ち上がると裏庭の木の下へ向かった。
明智城下はまだざわめき続けている。
織田軍は一番大事な参謀を失ってしまったのだから、動揺は当たり前といえよう。
しかし菊千代にとってはどこか対岸の騒ぎに聞こえた。
「・・・・・・・どうして、くれるんだ・・・・・・仙千代」
掠れた声が誰もいない裏庭の木々に広がった。
菊千代は定まらない指先で胸元の組紐を一本、取り出す。
それは以前万見が忘れていった髪を結うための紐だった。
忘れたことに万見は気づいていなかったので、菊千代はそのまま自分の
守りとして懐に仕舞っていた。
「・・・・・・・・・」
静かな空気の中、菊千代はその組紐にそっと唇を寄せた。
白壇の香が鼻腔を擽ってゆく。
それは万見が好んだ香りで、まるで菊千代は万見を抱いているかのような錯覚を覚えた。
「・・・・・・せん、ちよ・・・・どうしてくれるんだ・・・」
組紐をぎゅっと握り締めながら菊千代は再び呟いた。
両目からは透明な涙が滲み溢れてくる。
「今まで殿が一番であったのに・・・・・いつの間にかお前が一番に
なってしまっているではないか・・・」
助けられなかった悔しさと。
失ってしまった哀しさと。
たとえようもない全ての痛みが心に集中しているかのようだった。
「いくつもの約束を果たすことなく・・・・お前は、逝ってしまうんだな・・・」
嗚咽に更に声が霞んだ。
間近に見た最後の瞬間の映像が何度も頭の中で繰り返される。
大量の鮮血と制御を失った身体、そして見開かれ揺れていた瞳。
その瞳もやがて血で濡れた。
自分の手に触れた血液は十二月の気温にすぐに冷えて固まってしまい、
その凝結とともにけして許すことのできなくなった自身。
「・・・・・・・・傍にいると誓った。片時も離れずにと・・・」
菊千代は脇差に手を添えた。
刃渡りが一寸ほどの小さな刀は自決するときに丁度いいあつらえになっていた。
視線が天守閣へと向けられる。
そして静かに両目は伏せられた。
「・・・私は約束を守るよ。お前の傍に逝く・・・・」
そこにいるであろう大事な人の面影を目蓋に映しながら、菊千代は脇差の鞘を引き抜く。
右手の組紐が微かに衣擦れの音を響かせた。


表へ 前へ 次へ