森蘭丸異聞
- RANMARU MORI -

第五章   


天高く舞う花に添えて





夏の盛りはそうやって過ぎ行き、季節は秋、九月も半ばを過ぎた頃だった。
夕餉を終えくつろぐ信長の耳掃除をしながら、万見はゆっくりと語りかけはじめた。
「・・・上様、お願いがござまする」
「ン?」
日頃出すぎた真似をしない万見の突然の願いに、膝の上へ頭を
乗せた格好の信長が聞き返す。
万見は耳掃除を終え道具を懐中にしまいながら信長を見つめた。
「仙千代ではなく、蘭丸殿を小姓頭に据えていただきとうございます」
静かに、深く、張りのある声だった。
障子の向こうに控えている菊千代はその言葉を聴きながらゆっくりと目を伏せた。
しかし、同じく障子の向こうに控えていた蘭丸は驚いたように顔を横の菊千代へと向ける。
「・・・何故じゃ?わしの面倒はもう見飽きたか?」
「そのようなことはござりませぬ」
「では何故じゃ!許さぬぞ!わしの傍を離れるなどと・・・」
障子越しにも信長が怒り狂う様子が手に取れた。
蘭丸は慌てたが菊千代はいっこうに動こうとしない。
「上様のためを思ってのことでございまする。蘭丸殿をお傍に置くのが
一番よいと仙千代は思いまする!」
しっかりと信長の両目を見据え、少し緊張した手を広げながら張りのある声で告げる。
信長には中途半端な言葉が通じないことを、万見はよく知っていた。
だからこそどれほどに真剣であるか全身で伝えなければならない。
「・・・では、では仙千代・・・そなたはどうする気じゃ?」
万見の気迫にただならぬものを感じた信長が怒りを緩め尋ねた。
「私は上様のお傍を離れるつもりはありませぬ。されど・・・どんな場所にいても、
どんな立場にあったとしても上様をお守りするには変わらないと気付きましてございまする」
万見はちらりと障子を見やった。
そう教えてくれたのは先にいる、菊千代だからだ。
「・・・のう、仙千代。わしは確かにお蘭が大事じゃ。可愛ゆうてしようがない」
信長は間をおくとそっと万見の髪先を指で掬い上げた。
「かといって仙千代、そなたをないがしろにしたつもりもない。わしはそなたの
将来が一番楽しみなのじゃ。そなたも、お蘭も、どちらもわしにとっては天下にも
代え難い宝よ。なれば、そなたの気が褪めるまではこの信長の世話をしてくれぬか?
わしは仙千代を傍から離しとうない」
短気な信長にしては珍しく、疳を押さえゆったりとした話し方であった。
信長は仙千代に対していつもしっかりと話をしてくれる。
むやみに怒鳴りつけたり当り散らしたりといったことを仙千代にだけはしなかったのだ。
それは信長がどれほど仙千代を信頼し、そして大事にしているかの顕れであった。
「・・・・・上様・・・・・」
それほどに自分を大事にしてくれているのかと万見は目頭が熱くなる思いで信長を見つめる。
しかし万見には心配事があった。
蘭丸の寵愛を妬む輩から彼の身を守るためにそれなりの地位を与えて欲しかったのだ。
信長はそんな万見の気を知ってか知らずか小さく笑みを象った。
「お蘭にはそなたの補助をやってもらうことにしよう。わしはそなたが大事じゃよ。
ほんに・・・ほんに、な」
言われた言葉は万見の胸をぐっと締め付ける。
嬉しさに声が出ない。
「上様、ありがたき・・・幸せにございまする」
万見は深く頭を下げた。
彼は気づいていなかったが、信長は才気溢れる品行方正な万見を
目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。
それは蘭丸が来てからも変わることはない。
信長にとって万見は一番大事な小姓、つまり小姓頭なのだ。
「わかったようじゃな、仙千代。・・・では、支度をしてくるといい。今夜も寝かさぬぞ」
信長は万見の髪先を離すと笑って目配せした。

「菊千代殿は知っておられたのか?」
菊千代と共に部屋下がりを命じられた蘭丸は形のよい唇を尖らせて隣に尋ねた。
うぐいす張りの廊下はきゅっきゅっと鳴って耳を楽しませている。
「いったい何を?」
「・・・・仙千代殿のお言葉でごさいまする」
とぼけようとした菊千代の進行を右手に持った扇で止めて蘭丸は目をきつくした。
十四の少年とは思えないほどの鬼気に菊千代は思わず嬉しくなってしまう。
そんな様子の菊千代にさらに蘭丸は頬を赤らめて声高に叫んだ。
「菊千代殿!笑うている場合ですか!」
「いやいや、あんまりにも蘭丸殿が可愛くて・・・殿が大事にするのも無理はない」
「・・・またそうやって誤魔化そうとしておりますな?いつもそうでございまする。
蘭丸は仲間はずれに」
小姓頭の万見と菊千代、蘭丸はよく三人で行動していた。
信長の大事とあらば三人が三人とも同時にかけつけたし、互いに足りない
部分があればそれを咎め、そして助け合ってきた。
蘭丸はこの二人を兄のように慕っているのだ。
だからこそ、小姓頭を譲られるなどとはもってのほかだった。
「蘭丸はまだまだ未熟者故、仙千代殿にも菊千代殿にも習いたいものが幾重にもありまする。
それなのにお二人はあのようなことを・・・私に隠しておられたのも悔しいでございまする」
きゅっと掌を握り締めた蘭丸の頬を、菊千代の手がそっと包んだ。
それを機に下を向いていた蘭丸の視線が菊千代へと向けられる。
「隠していたわけではない。ただ、蘭丸殿に言うたら止めるであろう?」
「当然でございまする!」
蘭丸は声を荒げた。
それを宥めるように菊千代は頬に触れる指先をほんの少し動かす。
「本当に私たちは蘭丸殿を小姓頭にしたかったのだ。殿のためにも、
蘭丸殿のためにも。打算などは微塵もない。そうして欲しいと私たちが願ったのだ。
貝会わせのはまぐりのように、まるでそれしか対がないように殿も蘭丸殿も
互いを思っている。・・・それが嬉しかった」
「そのようなこと・・・お二人も同じではありませぬか。思いの丈に差などありませぬ。
皆で上様をお守りするのが大事でございまする。蘭丸だけでは・・・今の蘭丸では、
上様をお守り切れませぬ」
悔しそうに下唇を噛んだ蘭丸に菊千代は微笑みかけた。
本当に蘭丸は何の欲もなく、ただ信長を深く思っていることが伝わってくるからだ。
「一年もたてば背も伸び骨格も整えられる。すぐに力も強くなろうぞ。・・・では、
それまで私たちがちゃんと指導し仕る。それでよいか?」
途端、蘭丸の顔が輝いた。
まだしばらくはこのままの関係でいてもよいと、許しを得たのだ。
「・・・・はい!」
ことさら強く蘭丸は頷いた。
蘭丸にとってはなによりも二人と一緒にいられることが嬉しかったのだ。
しかし、この蘭丸の願いは幾月ばかりもせずに敗れることになる。
まだ秋の口。
風がゆるりと冷たくなってきた頃だった。



十月も半ばに差しかかった頃、蘭丸は待ち人を門前で迎えていた。
蘭丸の兄、長可が彼の元へ顔を出しに来たのだ。
「お久しゅうございまする、兄上!」
蘭丸は小紫に紅梅のあしらいを施した袖口の大きな単衣に黒の袴、いつもよりも
少し大人っぽい出で立ちで兄を迎えた。
垂らした前髪は濡れたように煌き小顔で桜色に染まった頬を彩っている。
長可が馬上から降りると蘭丸の姿はなお近く、金糸の紐で縛り上げた後髪が嬉しさで
左右に跳ねているのがわかった。
「ああ、久しいな。変わりないか、蘭よ」
長可の少し低めの甘い声が響き、それに反応した門人の溜息が言葉の後を追う。
森家は大変な美形家族であった。
家に置いてきた弟たちはもちろんのこと、勇猛果敢で鬼武蔵と呼ばれるこの兄でさえ、
容姿はまるで舞子のようだった。
凛とした百合の花のごとく純白な美しさを持つ蘭丸と、彼岸花のように緋色に染まり
優雅に佇む美しさの長可。
双方の引けを取らぬ容姿に見る者は全て魅了された。
ふと、長可の横を見ると細川 藤孝の家臣である松井康之の姿があった。
「兄上、こちらは・・・」
「ああ、上様に御用事があらせられるそうだ」
長可がそう紹介すると松井は蘭丸にお辞儀をし、蘭丸もまたそれにお辞儀を返す。
どうやら真面目で丁寧な性格らしい。
それからすぐに蘭丸は彼らを信長に取り次いだ。
出来るだけ早く目どおり叶いたいと長可が蘭丸を急かしたのだ。
実は蘭丸の顔を見に来たというのは口実で、二人は信長にある報告を
するために登城したのだ。
信長のいる部屋へ入ると長可と松井は膝を折って片手を畳についた。
「森長可にございまする。上様、ご機嫌麗しく」
「うむ。堅苦しい挨拶はよい。お蘭に逢いに来たのであろう?」
兄弟水入らずにしてやろうと信長は早々に長可を下げさせようとしていた。
そこへ松井が緊張した面持ちで言葉を割りいれる。
「実は報告したいことがございますれば、お耳打ちのほどを・・・」
松井の視線を受けて、長可が傍に侍っていた蘭丸に目配せする。
兄の思惑を理解した蘭丸はすばやく立ち上がると隣部屋に待機している
小姓たちに下がることを命じ、万見とともに自らも信長の部屋を出ようとした。
「いや、万見殿もご列席を。・・・蘭もこちらへ」
長可にそう促されて、立ちかけていた足を止め再び二人は室内へと戻る。
信長の斜め後へ万見が。
長可、松井と信長の間に横に座るように蘭丸が。
そして五人だけになり締め切られた障子の中でようやく話が進められた。
「実は上様、荒木村重殿が本願寺を通じて毛利方に寝返ろうとしているとの
噂を耳に致しました」
「なんだと!?村重が!?」
信長は途端に眉を顰めた。
万見、蘭丸は表情こそ崩してはいなかったが内心に苦味がこみ上げている。
松井は信長の前で緊張しているのか声が奮えていた。
「確かなのか?」
信長に促された長可はその端整な顔立ちを曇らせてひとつだけ頷いた。
「十七日に荒木殿が起請文と人質を本願寺に差し出したとの通達が。数日後には
有岡城の家臣皆に謀反の旨を説明したとも伝えられております」
「急ぎお知らせせねばと道中馬を走らせておりましたところを、荒木の手の者に襲撃を
受けますれば、森殿が偶然通りがかってくだされまして九死に一生を得ることができました」
ちらりと松井が長可を見ると、長可は命を救ったことなど微塵も恩に
着せることなく笑みを浮かべる。
「ふうむ・・・仙千代、どう見る?」
ぱちん、ぱちんと扇子を手で弄びながら信長が尋ねた。
もう腹は決まっている様子だが、どうやら後押しが欲しいらしい。
万見は両手を膝に置いた格好のまま微動だにせず答えを返した。
「証拠がござりませぬ。まずは設問されたほうがよろしいかと」
「ではお蘭、どう見る?」
自分に向けられた質問に蘭丸は小さく頷きを返し、視線と万見と信長のほうへ向ける。
「同じく。煙だけで水をかけたとあっては臆病者の風聞を立てられます故」
蘭丸の言葉に万見の表情が少しだけ柔らかくなる。
他の小姓はこういうとき、たいてい謀反であれば直ちに攻め入るべし、と答えるだろう。
けれど蘭丸はやたらな戦を好まない。
それは戦のほとんどが農村や農作物のある畑で行われることが気にかかっているからだ。
民のことを常に考えなければ信長の小姓は務まらない。
天下人の近習であるが故の、思いだった。
万見がいつもそう立ち回ってきたことを蘭丸は見ていた。
そして今、その思いは蘭丸に繋がり形になっている。
万見は身の内から震えるほどに嬉しさを覚えていた。
蘭丸や菊千代がいるから、自分もまた信長の目指す上へと登ることができる。
「では上様」
万見は決心したように声を強めに出した。
「設問使として有岡城まで仙千代をおやりくださいませ」
「・・・いや、そなたには謀反あらば検使を任せる故・・・」
信長は慌てた様子で仙千代の申し出を断る。
しかし万見は譲る気配がない。
蘭丸ははらはらした面持ちで万見を見つめていた。
信長の小姓となって半年たつが、大きな合戦を未だ経験したことがない。
万見の身がただ心配だった。
出来ることならば自分が名乗り出たかったが、それでは先輩小姓である万見の
役を奪ってしまうことになる。
彼を立てるため、蘭丸は黙って見守るしかなかった。
「上様、もしも謀反の卦があるならば仙千代はそのまま残って検使になりまする。
どうぞ、上様のお役に立たせてくださいませ」
「・・・・わかった。では明智や黒田をつけよう。無理はせず、無事に帰城するのだ」
「はっ!」
万見は深く頭を下げた。
そこへ成り行きを見守っていた松井が再び口を挟む。
「殿、我が弟の松井夕閑もつけまする。摂津には詳しい故・・・」
「ああ、頼む」
時刻は夕暮れ、落ちてきた陽に信長は視線を巡らせた。
「・・・・・謀反、か」
ぱしん、と信長の扇子が高い音を立てる。
静寂に流れていく時を破るかのように信長は明智への使者を呼んだ。


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