森蘭丸異聞
- RANMARU MORI -

第一章   


天高く舞う花に添えて





春うららかな快晴の日、真っ白な湯気が小さく立ち上った。
かねてから召し上がりの願を受けていた森蘭丸が大安吉日であるその日から出仕する予定で、
信長は自慢の庭で重臣たちと茶の湯を楽しみながら待っているのだ。
そして、静かな日本庭園の木々の合間に優雅な衣擦れの音が響いてきた。
信長たち一行は来たか、と内門へ視線を走らせる。
薄灰青色の小袖に濃紫の小袴、揃いの肩衣には金糸と銀糸で梅が縫われている出で立ちで
蘭丸は歩いてきた。艶びやかに流るる黒髪は両耳脇にひと房垂らされ、後ろ髪は薄紫の
綾織小紐で少し高めに結われている。
信長の重臣たちはその美しき動作と容貌に思わず感嘆の息を漏らした。
「上様、森蘭丸にございまする」
まだ年を14超えたばかりの少年は信長たちの前で恭しく膝をつき頭を下げた。

代々織田家を支えてきた森家は蘭丸の父である森三左衛門可成が戦死した折、次男の長可が
家督を継いだ。長男は父よりも前に戦死していたための措置だったが当時長可は13歳、
蘭丸においては10歳にも満たない幼子であった。
織田家の隆盛に助力した森三左の功績に感謝するも、信長は三男以下の小姓出仕を願した。
ありていに言えば人質として。
小姓仕えのない長可が家督を継ぐとなると確実な繋がりを持つことはできない。
森家と織田家の信頼という絆を目に見える形にするべく、このような形にあいなった。
とはいってもすぐには小姓仕えできる年齢でもないため蘭丸以下坊丸、力丸は勉学に
励み一通りの知識、教養を身につけた段階で出仕することになったのである。

そして今日、三男蘭丸が小姓として信長の居城で働くことになった。
「蘭丸、許す。おもてを上げい」
信長の隆々とした声音が耳に届いた。
それを受け蘭丸は伏せていた長い睫を押し上げ主君の顔を見上げる。
柔らかな女子のような美貌でありながら大人でもなく子供でもない凛とした気品と危うさ。
この年頃だけが持つ独特の雰囲気は蘭丸の美しさに更なる華を添えていた。
「気に入ったぞ。これからはお蘭と呼ぼう。利家、お蘭に一服立ててやれ」
「はっ」
そう声をかけられた前田利家は今日、茶の主人として招かれ腕を披露していた。
慣れた手つきで茶をたてると羽柴、明智、滝川、長谷川など居並ぶ重臣の前で蘭丸へと
茶碗を差し出す。
蘭丸は薄紅色の唇を形よく笑ませそれを受けたが内心は失敗などしないかとひやひやしていた。
信長の噂はよく聞いていたし、それはいい噂だけではなく気に入らぬ者をその場で
手打ちにしたという噂も含まれていた。
そんな御仁の前での粗相は直ちに死に繋がるだろう。
森家のためにも蘭丸に失敗は許されなかった。
こくり、と蘭丸の喉が動き茶が吸い込まれてゆく様を大名たちは静かに見守った。
「これはまた、優雅な飲み口じゃ。のう、殿」
そこへ、からかうように秀吉が信長に声をかける。
「気にいったか?サル」
「それはもう。このように美しい男児は見たことがござりませぬ」
感心したようにしきりに頷く秀吉に信長は会心の笑みを浮かべた。
「言うたな。では、そなたお蘭になら勃つか?」
言われてどきり、としたのは蘭丸のほうであった。
意味がわからぬほど子供ではないが、秀吉に仕えろと言われてしまっては立つ瀬がない。
蘭丸は一言も発しないまま二人の戯れを見守った。
「ふぅむ・・・そうですな、試してみなければわかりませぬが、蘭丸殿はこのサルでも
気を惹かれます故」
秀吉は蘭丸をちらりと横目で見ながら告げた。
それに弾かれたように信長が肩を揺らす。
「あっはっはっは!聞いたか、皆の衆。男嫌いのサルでも発情するほどの美貌だそうだ」
信長の声に一同の笑い声が響いた。



それから三日、蘭丸は小姓頭の万見仙千代について仕事を習った。
何をおいてもまずは殿のご気性を理解すること、と仙千代は優しく教えてくれた。
その教えどおり蘭丸は信長の行動、言葉をよく観察していた。
信長は確かに乱雑で気性の荒い面が多かったが、戦略においては類を見ないほどの天賦の
才を誇り、また器が広く気に入った者には惜しみなく褒美を取らせている。
その人を惹き付ける行動力や統率力は蘭丸の目に眩しく映っていた。
蘭丸は幼き頃亡くした父への慕情のような感情を信長に持ち始めていたのだ。
そんな矢先、信長は蘭丸を自分の部屋へと呼びつけた。

「殿、蘭丸にございまする」
障子を開けすり足に前へ進むと、蘭丸は顔を伏したまま膝をついた。
「うむ。表を上げてよいぞ」
信長の言葉に蘭丸が視線を前へと向ける。
その動作に長くしなやかな髪がはらりと零れ床についた。
「どうだ、もう慣れたか?人にも、仕事にも」
「はい、皆様方が丁寧に指導してくださります故」
蘭丸は信長の横に控える万見の顔をちらりと見た。
万見もまた、信長の肩越しに蘭丸を見、にこりと笑いかけてくれる。
「ふむ・・・」
信長は思案するように右手で遊んでいた扇を閉め鼻頭へもっていった。
「ではわしにも慣れるがいい。・・・さぁ、ここへ来て座れ」
示された場所は高麗縁の畳の上、信長がいつも座っているひとつ高い上座だった。
困ったように視線を万見に走らせたが万見は助けてくれる素振りもない。
蘭丸はやや緊張した面持ちで信長の傍へと侍る。
すると信長は衣服が皺になるのもかまわずごろりと横になり、正座した蘭丸の膝へと頭を乗せた。
「仙千代、わしは昼寝をする。しばらくはお蘭と二人にさせい」
「はっ!」
いつもの信長の気まぐれであると、万見の視線が蘭丸に告げる。
そして床にころがった信長とその頭を膝に乗せた蘭丸だけを残し居室から出ていってしまった。
どうしたものかと困り果てた蘭丸はふと、思いついたように袖から普通の扇よりも
一回り小さい扇子を取り出し信長の首元へゆったりとしたそよ風を送り始める。
蘭丸は激しく緊張していた。
信長と話をするのはこれで二回目だ。
これからの一生を命がけで捧げる相手。
蘭丸は長い睫を少しだけ伏せながら、できるだけ信長が気持ちよく昼寝できるようにと、
震える指先で扇を煽った。
「・・・・・うん?桜の香りがするな」
その風に乗って届いた匂いに信長がクン、と鼻を鳴らす。
季節は5月、遅咲きの桜でもその花びらを散らした時期だった。
「小袖に・・・桜の香を移らせております。もうしばし、春宵を楽しめればと」
蘭丸の答えに、信長は小さく頷きを返した。
きつ過ぎない柔らかな甘い芳香が二人の間を満たしてゆく。
「・・・まるで常世の気分よ」
機嫌のいい信長の声は蘭丸の作り出す心地よい空間にうっすらと消えていった。



それから信長が目を覚ましたのは、ゆうに一刻を過ぎた頃だった。
大きな欠伸をひとつ落とすと、その仕草のせいか頭の上から小さなうめき声が響いて
信長は顔を上へと向ける。
「おはようございます。上様」
声の主、蘭丸はささやくようにそう告げた。
その凛とした声音に気を良くして信長も笑みを象りながら声をかける。
「ああ、良い寝心地だったぞ」
信長は身体を起こすと両腕を振り上げて伸びをした。
実は信長はあまり睡眠が深くない。
いつどこで敵が襲ってくるかわからない状況で深い眠りにつくことはできなかったからだ。
しかし今日はどうしたことか夢も見ずに眠った気がする。
桜の甘い香りと、ささやかな風。
そして蘭丸の穏やかな気が信長を深い眠りに誘ったのかもしれない。
そう思うと、信長は不思議な面持ちで少年を見つめた。

「上様、湯殿の用意が整いましてございます」
頃合を見計らったかのように万見の声が障子越しに響いた。
「・・・・ああ、すぐに参ろう。・・・・・・・お蘭、共せよ」
「はっ」
蘭丸が信長の後ろをついて歩こうと立ち上がった瞬間、どたんっと音をたててころんでしまった。
黒く艶やかな前髪は乱れ、畳の上についた手と絡んでさらに無様に演出してくれている。
蘭丸は顔を赤らめ、そしてすぐに青ざめさせた。
「どうした、目に見えぬ鬼が足でも引っかけたか?」
信長が笑いながらそう告げると、蘭丸の顔はますます赤らみ、青ざみ、再び正座する格好に
直りながら俯いてしまう。
「そうではござりませぬ・・・・その、・・・・足が・・・、痺れてしまいました故・・・・」
信長は笑いを潜めた。
考えてみれば一刻も信長の頭を乗せていたのだ。
足が痺れないわけがない。
痺れた足が痛くて、信長が起きた時蘭丸は小さく呻いたのだ。
「それは・・・悪いことをしたな」
今度は優しい微笑みを浮かべた信長が蘭丸の傍へ近寄ると、その細い肢体を
なんなく抱き上げた。
「う、上様!?」
「侘びの代わりだ。風呂までわしが抱いて連れていってやろう」
「そのようなことは・・・上様!」
臣下を抱き上げて風呂場まで運ぶなど、前代未聞のことだった。
蘭丸は慌てて腕から逃れようとしたが信長の力強い腕がそうさせてはくれない。
障子を開けて信長の居室から出てきた二人を、万見が目を丸くして見上げた。
「今日はお蘭と二人で入る」
そう告げて信長は他の小姓が待つ風呂場へと足を進めた。
その後姿に万見は小さな不安を抱いた様子で眉根を寄せる。
まさか、気まぐれなどではなくて蘭丸を気に入ったのではないか。
万見の唇がきりり、と噛まれた。


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