佐渡里は昼間、大学の先輩である中野から中途採用内定の連絡を受けた。
金の目処も立ったところで佐渡里はそのことを家主である姫嶋に告げることにした。
ダイニングへ向かう途中の歩み、そのことを告げた刹那、彼の足音が僅かな間
止まったことを佐渡里は背中で感じていた。
姫嶋は、このことをどう思ったのだろうか?
食卓へ着いた時姫嶋は、いつのも涼しげな笑みを浮かべ“そう。それはおめでとう。”と
淡々と言った。
厄介ごとが一つ減ったとホッしているだろうか…?
病気の治療の進捗状況は聞くに聞けず、完治は当分先だろうことは、
素人の佐渡里にも見て取れる。
苦しい想いを秘めた彼を放置し出て行くことは、佐渡里の良心が咎めた。
しかし、いつまでも心の通わぬセックスを続けることは、佐渡里の心をドス黒く重い澱が
埋め尽くしてしまいそうで、これ以上耐えれるものではなかった。
佐渡里は何でもないような笑みを浮かべ、いつもより饒舌に就職の話をした。
いかにも働き先が決まり嬉しいという芝居を、姫嶋が部屋にいる間中続けた。
パタリと部屋の扉を閉じると、重い溜息が思わず零れ落ちた。
就職先が決まったことはもちろん嬉しいことだ。
嬉しいと思いながらも、此処に留まりたいと思う自分がいることを佐渡里は
否定することはできなかった。
早くここから逃げたい自分と、いつまでも彼の弱味に託け彼の温もりだけでも
得ていたい自分が、佐渡里を責め立てた。
住むところも収入も無くした佐渡里を善意で助けてくれた姫嶋から逃げる自分が、
どれほど卑怯でどれほど情けないか…そして既に腕にしっくり収まる
細い体躯を手放す物悲しさ、虚無感を思い、嘆息しつつ深くベッドに腰掛けた。
毎夜このベッドで寝乱れる彼を思うと、愛しさと切なさと同時に
強い虚しさが、佐渡里を襲う。
そんな暗い思考を打破るように、細い鳴き声がふと耳にを入る。
擦り寄る仔猫の頭優しく撫で、佐渡里は口端に苦い笑みを浮かべた。
「…ユキ。腹減ったのか?」
甘く低いテノールが響く。
愛しげに仔猫を抱き上げた佐渡里は、ベッドから腰を上げた。
ペット可のマンションも探さねばと思いつつ、餌をやりにキッチンへと
歩を進めていた佐渡里は、ふと耳に入った姫嶋の声の大きさに驚いた。
冷静沈着な彼には似つかわしくないような、激昂した様子だった。
キッチンへ足を踏み入れると、その声が更に大きくはっきりと佐渡里の耳にも入ってくる。
「前の会社と同じように、今度の会社も首にさせろ!金はいくら積んでもかまわない!」
耳に入った会話に、佐渡里は思わず足を止め田村へ怒鳴る姫嶋を凝視した。
姫嶋の声に驚いたのか腕に抱いていた仔猫が佐渡里の腕から飛び降り、
もえさんの足元へと近づき、一声鳴いた。
その瞬間、ピタッと彼の怒鳴り声が止み、頬を引き攣らせた二人の表情が、
佐渡里へ向けられた。
「…さ…わた…り……今の…は…なし…」
怯えたように色を失くし、震えた唇から途切れ途切れに紡がれる。
フッと小さく鼻で笑い佐渡里は、片口端を上げ皮肉めいた笑みを浮かべる。
「――あァ。聞いた。」
それだけ言うと佐渡里は、青白く表情を無くした顔を憮然と見下ろしていた。
一歩、一歩、彼に近づきながら…。
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