仕事を終え自宅へと戻ってきた雪夜は夕食前に着替えをしようと二階の部屋まで戻った。
どんな仕事をしていても考えていることはひとつだけで、そのひとつがあまりにも自分を
占拠していることに苦笑すら唇に浮かんでくる。
つい先日、口をついて出てしまった言葉。
感極まった自分はその言葉を耳にした佐渡里の表情を見てはいない。
聞き流していてくれればいいのだが。
背広を脱いでネクタイをはずしかけたところで、すぐ右の鏡に映った自分に気づいた。
唇はいつものように僅かな潤みと赤みを帯びて今は少しだけ開いたままでいる。
胸元を第二ボタンまではだけた姿はどことなく憂いを帯び、白い首筋に佐渡里のつけた
情事の跡が消えずに残っていた。
「・・・こんな顔では、感ずかれてしまうな」
自分とは思えないほど情けない顔だと、雪夜は眉尻を下げた。
瞳が語る。
自分の気持ちを。
視線が語る。
湧き上がる衝動と困惑を。
伏せた睫の先ですら。
ただひとつの光に向いていた。
佐渡里という、すべてを奪う感情に。
雪夜はネクタイをすべて解くと、ダブルベッドの豪勢なシーツの上に放り投げた。
美しく纏めてあった髪を片手で解すようにくしゃくしゃにし、サイドボードに置かれる
名のあるワインをグラスに注ぐ。
とぷっと深い音が響くと真紅の液体が目の前で揺れた。
「・・・どうして」
自分に問い掛けるようにそう呟いて、長い睫が奮えるように半分ほど伏せられる。
そしてそのまま整った鼻梁とともに、顔が横に傾けられた。
「どうして、抱かれるだけの自分に嫌悪するんだ・・・?」
言葉にしてみても、その真意を掴み取れはしない。
もてあます情熱は確かに自分のものなのに、そのすべてを自分では把握できていない。
好きだから抱かれた。
それなのに呼吸すら止まるほど胸が苦しい。
愛しい人に抱かれることの喜び。
そして、抱かれることへの嫌悪。
相反した二つの感情が自分の中を渦巻いている。
それが耐えられなくて、雪夜は戸惑っているのだ。
ワインを一口含み、手の甲で唇を拭うと雪夜は用意されているアイロンのかかった
シルクの部屋着へと袖を通した。
どうすればいいのかわからなければ、また肌を重ねればいい。
まだ、時間はあるのだから。
雪夜は夕食を取ろうと階段を下りて食堂へと向かった。
途中、佐渡里と一緒になって柔らかな笑みを返す。
「まだ夕食は取ってないのか?・・・なら、一緒に食べよう」
そう誘うと佐渡里は得意の笑顔を浮かべながら同意を返してくれる。
大丈夫、まだ二人でいれる。
考える時間があるのならば、自分は迷っていても平気だ。
今はまだ手放したくはない。
この笑顔も、この腕も。
自分を安心させるように呼吸を深くさせると、雪夜は佐渡里の言葉に耳を傾けた。
「・・・・え?」
そして、驚愕する。
思いもよらなかった・・・というよりかは、想定していなかった。
「俺さ、就職決まりそうなんだ」
佐渡里のこの言葉は、ひどく冷たく心に波紋を打った。
自分の計画の予定には入っていない。
こんなに早く次の仕事が見つかるなんて。
ひどく焦った様子で、雪夜は階段の途中、足を止めた。
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