絶対無敵に恋人志願


Vol.9 貴方の感触がこの奥に残るから


深く淹れられたエスプレッソのカップが空になると、膝においたナプキンで
口を拭い佐渡里を振り返る。
「・・・じゃあ、会社に行ってくるから。お腹が空いたらもえさんに
頼んで何か作ってもらって?」
そう告げながら朝食の席を立った雪夜は、賄いを勤めるもえさんという女性を
紹介して扉から出て行った。
後に残された佐渡里が微妙な表情をしていた事には気づいている。
きっといろいろと考えるところがあるんだろう。
それでも雪夜はその答えを教えてあげることも、気分を楽にして
あげることもできなかった。
そう選んだのは自分だから、後悔などはしていない。
多分、今彼の顔を見つめたら、彼の精悍な顔立ちが自分の与える快感に
恍惚と変わる瞬間を思い出してしまう。
そんなにやけたツラを見せることなんてプライドが許さないし、したくもない。
雪夜は何食わぬ顔で豪邸から車で会社へと向かった。

どことなく落ち着かない様子で、車中、雪夜は手元のボタンを押し運転席と
後部座席を分厚い硝子で分断した。
柔らかなシートに背を埋めながら、目前に控える田村の顔へと視線を移す。
すると田村は心得た様子で微かに頭を下げて資料のような冊子を雪夜へ渡した。
「・・・大丈夫です。佐渡里様は動揺なさってはおりましたが、雪夜様を
お疑いになってはいらっしゃらなかったご様子です」
言葉を聞いて、僅かに雪夜の雰囲気から焦りの色が消える。
受け取った資料には佐渡里の家族構成や今までの職務履歴など、詳しく
調査された結果が記載されていた。
それに軽く目を通しながら雪夜は作られた飾り物のような美貌を僅かに歪ませる。
「まだ油断はできない・・・完全に信じ込ませないと、後々面倒の種になる」
小さな声で語尾を続けて。
雪夜は革張りの肘掛に腕を置き、頬杖をついて窓の外へと瞬間的に視界を投げた。

上手くごまかせただろうか?
疑心暗鬼にはなってないだろうか?
突然家を出ていくなんて、荷物をまとめてはいないだろうか?

不安と呼ぶほどには大きくない心配が胸をざわめかす。
垣間見えた風景はいつもと変わらないのに、重い腰が確実に昨日とは
違う自分を認識させた。
「・・・就職、どこを受けるか徹底的にチェックしろ。その会社がうちと
関連があるかもすべてだ」
切れ長の瞳をうっすらと細め、雪夜がそう命令を下す。

罠を張らねば。
彼が手の内で踊っている隙に。
気づいたらきっと怒って自分を許さないだろうから。
一度手に入れた温もりを今更手放すなどできない。
心の微かな罪悪感も、今は奥に仕舞い込んで。
どんなに手を汚しても構わないから。
甘い罠に、堕ちて。
どこまでも一緒に堕ちるから。

「まだ・・・生活を安定させうちを出させるには早い」
雪夜の唇が冷淡に言葉を紡いでゆく。
柔らかな髪に手櫛を通して視線を田村へと戻したその表情は、すでにいつもの
小生意気な笑みを浮かべていた。
彼を自分の身体に溺れさせて、喘がせて、戻れなくさせて。
だから自分は自分のままでいなければいけない。
艶を引いた雪夜の双眸は迷いを捨てた。
その様子に田村は確認の頷きを返し、雪夜の手元にある資料を受け取って
変わりに仕事の資料を手渡す。
分厚いファイルに目を落とした雪夜は、運転席と隔たれていた硝子を下ろして
仕事の顔へと姿を変える。
車はオフィス街を通り目的地の高層ビルに着こうとしていた。




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