「残念ですが・・・はい、力及ばず申し訳ありませんでした」
第二外科の医者である朝岡恭吾はそう告げてゆっくりと頭を下げた。
手術をしても助かる見込みのない患者の家族にはいつもこうやって説明を行うようにしている。
これでもまだ医局の対応はマシになってきたほうで、以前は頭を下げることなく冷たく
「ご愁傷様です」と告げるばかりだった。
第一外科はまだマシだ。
そのほとんどが骨折や外傷の治療で死亡する確率は格段に下がる。
けれど第二外科は主に手術や入院患者の治療に当たるため、こういう場面にはよく出くわした。
「そんな・・・!先生、どうにか、どうにかならないんですか!?」
「・・・・・癌細胞が膵臓、肝臓、腎臓にまで転移していました。後は抗癌物質で進行を遅らせる事しか・・・」
朝岡の横にいる第一執刀医は顔形だけは申し訳なさそうに変えながら、
口調は変わらない様子で言葉を返す。
彼は夕方の手術でこの患者の腹を開け、そしてすぐに閉じた。
実際問題、第二執刀医の朝岡の目から見ても手の施しようがない末期症状だった。
だからといって家族が何もせずに処置を終了したという行為を黙って見逃すはずがない。
朝岡は眼鏡の位置を指先で直すと家族のほうへ顔を上げた。
「手術をしたとしても治る見込みはほとんどありません。それならば無駄に体力を消耗させて死期を
早めるよりも抗癌剤を投与することで進行を遅らせ、ホスピスに依存するほうがよいと判断しました」
朝岡はその端整な顔立ちを微動だにすることなく家族へ意見を述べる。
瞬間、朝岡の頬は患者の息子に殴られていた。
「・・・アンタ、ひどいな!いくら何でも・・・そんな言い方・・・!患者を助けるのが医者の仕事だろ・・・!」
朝岡は殴られた頬を手で摩ることもなく、鬼のように顔を引きつらせた患者の息子に視線を向ける。
「朝岡先生、ここは私が・・・」
朝岡よりももっと年のいった第一執刀医が間を仲裁するかのように目配せしてきた。
興奮した患者の家族を煽るよりも穏便に宥めて帰ってもらいたいというのが医局の方針だ。
「・・・・・・・・失礼致します」
朝岡は患者の家族と第一執刀医に頭を下げると踵を返して歩き出す。
廊下は長い。
残された家族の視線が背中に冷たく突き刺さった。
朝岡が中庭へ出ようと非常口のある場所まで来ると、そのすぐ横の宿直室で
研修医たちの声が聞こえてきた。
「・・・・・岡先生だろ?今しがたまた家族と衝突してたみたいだぜ」
「あー、朝岡先生またやったのか・・・。まぁ、あの冷たい美貌じゃな、
心がまったく入ってないように見えるもんな」
「自業自得じゃねぇの?女受けはいいんだから、外科じゃなくて産婦人科でも行きゃいいのに」
一瞬、朝岡の扉を開く手が止まり、眉がきゅっと潜められた。
「あの人ってさ、月みたいじゃねぇ?」
「月?」
「ほら、青くって冷たくってなんか高飛車っていうか・・・怜悧な感じがさ」
「確かに表情ないし、冷たいよな!もう少し顔の筋肉使えばいいのに」
「言えてる!」
ハハハハ、と小さな笑い声が夜の宿直室に響く。
朝岡は口端をきゅっと結びなおすと扉を開いて中庭へ出た。
あの場でもし言い返していたら、研修医の彼らよりも医者である自分のほうが立場が上なのだから
すぐに謝ってくれただろう。
けれどそれは心からの謝罪などではなく、立身出世の気持ちからだ。
長いものには巻かれろ、というのが医局での常識である。
朝岡はすぐ傍にあるベンチへと腰を下ろし澄んだ空に浮かぶ満月を見上げた。
「・・・・・・月、か」
思わず苦笑がこみ上げてくる。
朝岡は外科医のホープとしてその腕を買われ、まだ31歳であるにも関わらず
第三執刀医、第二執刀医として手術に参加させてもらっていた。
大学病院という特殊な空間の中で、三十代で手術に参加できるのは稀な例だ。
それだけで朝岡が腕を見込まれているのがわかる。
だからこそ朝岡もその期待に答えようといろいろな症例を見ている最中であるし、
論文などを発表して大学に貢献もしている。
もうすぐ助教授になれるのではないかというのもあながち嘘ではなかった。
けれど、そんな朝岡に対してやっかみの気持ちをあからさまにする輩も少なくはない。
今の地位を手にしたのも教授と寝たからではないか、とか。
経営者の奥さんを顔でたらしこんで助言を願っている、とか。
そんな口さがない噂が飛び交っていた。
かといって腕のいい朝岡を大学病院側が見捨てるはずもなく、ほとんどの患者には信頼を
得ているからこそ問題にはならなかった。
ただし今日のように手を施せなかった家族に対峙するとき、朝岡はどうしても冷たく接してしまう。
大事な家族を助けてあげられなかった負い目や苦しさに絶えかねるのだ。
ただ申し訳ない、と告げるしか朝岡には出来なかった。
適当な言い訳を口にしたり、誤魔化すように哀しそうな顔をしたり、朝岡はさほど要領よく生きてはいない。
真面目で真摯に治療に取り組むからこそ思いやりに欠ける言葉になってしまうのだ。
朝岡はそんな自分を反省するように空を見上げながら眉根を寄せた。
眼鏡のガラスには月明かりが反射し、目の端が少しだけ眩しく感じる。
「ただ浮かんでいるだけでこれだけ存在を主張しているのだから、確かに似ているかもな」
自嘲めいた笑いを浮かべて朝岡は自分を下卑した。
朝岡が顔を少しずらすと眼鏡の位置もずれて、今まで強烈な光を放っていた反射が無くなる。
「・・・・・何が似てるんだ?」
ふと、足音も立てずに近づいた存在に朝岡が目を丸くした。
振り返ると視線の先に朝岡の幼馴染で同じ病院の内科医である早坂宗太郎が現れる。
ぼさぼさの髪に高い身長、頼りになる逞しい体躯で白衣を身にまとう姿はどうにもミスマッチだ。
しかし男らしい精悍な顔立ちは見るからに朗らかで優しさに満ち溢れ、患者から信頼が厚かった。
「・・・・・・いや、別に」
「なんでもなくないだろ?一時間くらい前まで手術やってたらしいし」
なんでもない、と言いかけた朝岡の言葉を遮るように早坂がベンチに腰を下ろしながら告げる。
先手を打たれてしまった朝岡は気まずそうに眉根を寄せた。
「・・・・・本当にたわいもない事だ」
この言葉に早坂の口端がふっと苦笑を浮かべる。
朝岡はプライベートと仕事はきっちり分けるタイプで、仕事中はたとえ幼馴染で
あろうとも敬語を使う傾向にある。
それが今、崩れているのだ。
言葉遣いに気が回らなくなっていることは明確だった。
それに幼馴染で、しかも朝岡に片思いしている早坂にとってそれを理解するのは容易いことだ。
「いいよ、たわいもない話をしよう」
あくまで耳を貸す姿勢の早坂に朝岡はさらに眉間に皺を作った。
長年付き合ってきたからこそわかるお互いの性格。
こういう時はいくら穏やかで気の優しい早坂でも絶対に引かないことを朝岡は知っていた。
「・・・はぁ、まったく」
溜息交じりに苦笑を浮かべると早坂の指先が朝岡の顔へと伸びてくる。
触れた先は頬だったが、思わぬ指の温かさに朝岡は早坂の手を払うことを忘れてしまった。
隆起した頬のラインをゆっくりと男の無骨な指先が滑ってゆく。
その指先の行方を追おうとしたのか、意識せず視線が早坂のほうへ向けられた。
瞬間、朝岡の顔の角度が変わって早坂の指に朝岡の眼鏡のフレームが触れる。
かしゃん、という無機質な音に朝岡は急に意識を現実へと引き戻された。
「・・・・・俺が、月に似ていると言われた。それだけだ」
少し気恥ずかしくなってしまった気持ちを隠しながら朝岡はやや早口で会話を続ける。
早坂もそれ以上は深追いせず、伸ばしていた指先を元の場所に引いた。
「月に?・・・・・・・・・ああ、似てるかもしれないな」
一瞬悩んだように視線を空へと上げた早坂が納得した様子で頷きを返す。
朝岡はツキン、と胸元が痛んだ気がした。
まさか幼馴染の早坂ですら、同じように青くて冷たいから、というのではないだろうかと。
朝岡は視線を地面に落としながら深い吐息を吐き出した。
「ほら、純白でキラキラしてて、澄んでいるところがさ。似てるだろ?お前に」
「・・・・・・は?」
思わず朝岡はその端整な顔立ちを歪めて早坂を睨んだ。
考えていた答えとは到底かけ離れた台詞を告げられたからだ。
しかし早坂は一人ごちに納得したまま言葉を続けている。
「太陽の光を受けてさ、暗闇で怯える人たちを優しく照らしてあげててさ。なんというか、
影の努力家であるお前らしいよ」
そしてにっこりと微笑んだ早坂に、朝岡は照れたように頬を緩ませて顔を背けた。
「何、言ってるんだ・・・冷たいとか、高飛車とか・・・そういった意味で似てるって・・・」
「そうか?飄々としてるだけで高飛車でもないし、けっこう素直で・・・・って、恭吾ー?」
顔を背けたまま、口元を片手で覆うようにして肩を震わす朝岡の顔を早坂が覗き込んでくる。
ちょうど眼鏡のフレームがあるせいで早坂からは朝岡の表情を見ることは出来ない。
「・・・院内では朝岡先生と呼べ」
朝岡の冷たい一言に早坂はうっ、と小さく呟いてぽりぽりと頬をかいた。
そしていつまでも反応を返してくれない朝岡に媚びるように笑みを浮かべながら呟く。
「ええと、朝岡先生・・・?」
呼ばれた朝岡は深い深呼吸を何度か繰り返した。
それでようやく照れた表情が元に戻り、朝岡はいつものポーカーフェイスを早坂に向ける。
「・・・そんなふうに言ってくるのは早坂先生だけです。その目は腐った節穴なんですね」
「ひ、ひどい・・・俺は普通に思ったことを言っただけで・・・ほら!俺のは愛だから!」
瞬間、べしっと大きな音をたてて早坂の頭が前のめりに吹っ飛んだ。
朝岡が思い切り後頭部を殴ったからだ。
思わず早坂はそのままベンチからずり落ち、地面を抱きしめてしまう。
「院内でヘンなことを口走らないように」
言うと朝岡はベンチから立ち上がって両手を白衣のポケットへ入れて歩き出してしまう。
前のめりに突っ込んだ早坂のことを気にする様子もない。
そんな朝岡の背を見つめながら早坂はとほほ、と肩を落とした。
「・・・おーい、恭吾ー。今日の手術、ダメだったんだろ?帰りにさ、一杯やってこうぜ?」
身体をごろりと回転させて仰向けに座り込んだまま、早坂が声をかける。
朝岡の沈んだ瞳を見れば言葉はなくとも手術の結果くらいすぐにわかった。
それくらいは朝岡の事を見ているつもりだし、好きなつもりだ。
朝岡は歩き出した足をゆるりと止めて月光の中に立った。
「朝岡先生と呼びなさい。・・・・・・奢りでしょう?付き合いますよ」
あくまでも”付き合う”、という部分を強調しながら返された答えだった。
けれどそれで満足した早坂がうん、と答えると朝岡は白衣の裾を風に揺らめかせながら院内へ入ってゆく。
そのしなやかな動きを見送った早坂は小さく口端を緩めた。
「・・・・・はいはい、朝岡先生」
相手がいなくなってから言われたとおりに名前を呼びなおす。
病院の門を一歩出てしまえば恭吾と呼んでも怒らないというのに、かたくなに病院では
朝岡先生だと訂正してくる。
あまりに真面目で律儀な性格の朝岡だがきっとそれが他の人間には少し窮屈に思えてしまうのだろう。
しかし朝岡に片思いをしている早坂にとってはそれは好都合だった。
端麗な容姿のおかげでただでさえライバルが一杯なのだ。
これで意外にかわいい一面もある、なんてわかったら手に負えなくなる。
ふと、早坂は朝岡の連れない態度を思い出して眉根を弱ったように下げた。
「・・・・・・・・・・・あの白くて高貴な月を手に入れるのは、いつになるんだろうな」
早坂は残念そうに呟いたが、瞳はおかしそうに笑っている。
早くあの美人を落としたい気もするし、簡単に落としてはつまらない気もするのだ。
「・・・・・・」
ふいに視線を空に上げると遮る雲もない月明かりが煌くように零れ落ちてきた。
早坂はしばしその目に映える月夜を楽しむため顔を上げたまま静止した。
月明かりは白く、そして優しく降り注いでいる。
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